映画『アマデウス』をご覧になったことはあるだろうか?史実をまったく無視した破茶滅茶な筋立てだけれど、モーツァルトの生涯を絢爛豪華に活写した文句なしに楽しい作品である。この映画を見ると、才能というものが何なのかについて考えさせられる。『アマデウス』の主人公は天才モーツァルトではなく、凡庸な音楽家サリエリである。モーツァルトの眩い才能を目の当たりにして、サリエリは自分の凡庸性を思い知らされる。「私は凡庸な人間のチャンピオンだ」と映画の中でサリエリは述懐している。サリエリの悲劇は、モーツァルトの才能に気がつかないほどには充分に凡庸でなかったことだ。あるいは自分の凡庸さを自覚する程度には非凡だったことだ。「凡庸な」とは言ったものの、サリエリはオーストリア皇帝ヨーゼフ二世のお抱え楽師であり、音楽に関して比類ない学識を有しており、楽器の演奏だって当代きっての腕前だった。それでは勤勉で生真面目なサリエリは、どうして「幼稚で、軽薄な」モーツァルトに敵わないのだろう?サリエリの知識や技術はたゆまない努力によって獲得されたものである。しかし、実は同じ技量を獲得するために必要なエネルギーの量は凡人でも天才でも変わりはない。サリエリにとっては苦労の結晶であったものが、モーツァルトにとっては愉快な前戯でしかないのだ。まるで呼吸をするように楽しく努力するような人にどうして勝つことができるだろう。おそらく人が才能と呼んでいるものの大部分は、無自覚に努力ができてしまう体質のことなのだろう。これは芸術家でも運動選手でも学者でも事情は同じであろう。

 ニーチェに『悦ばしき知恵』Die fröhliche Wissenschaft という著作がある。この表題は、イタリア語 la gaia scienza の直訳であり、中世プロヴァンスの吟遊詩人(トルヴァドゥール)たちが、ラテン語ではなく俗語を用いて、自由な形式で愛を歌いあげた彼らの詩作のスタイルを指すものである。ニーチェは自分の著作が、いわゆる哲学論文のスタイルから逸脱した、自由で奔放で、そして何より「楽しい」哲学であることを示したかったのだろう。la gaia scienzaはフランス語ではle gai savoir(愉しい知識)と訳されるように、scienzaにはかなり広い含意があるようだ。ただしニーチェが敢えて訳語として選んだWissenschaftはやはり学問であり、科学である。愉しい学問、悦ばしき科学!日々のルーティンな営みをすべて愉悦と感じるほど、私たちは誰もアマデウス的ではないだろうが、もしあらゆる苦労や試行錯誤を、遊戯に興じる小児のように行うことができたとしたら、そのときには、はたしてどんな天上的な科学が生まれることだろう。

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