慶應義塾大学アート・センターには、「土方巽アーカイブ(「巽」は巳が二つ)」が設置されており、舞踏(BUTOH)については、とても充実した資料群を管理しています。舞踏や前衛演劇で論文を書こうとする研究者は、このアーカイブを必ず訪問すると言っていいでしょう。このアーカイブ内には「ポートフォリオ舞踏」という調査研究グループがあり、私はその代表を務めています。

 ここで言う「舞踏」とは、鹿鳴館の「舞踏会」などと言う時の社交ダンスとは異なり、「暗黒舞踏」として世界に広まった日本発の前衛芸術です。「暗黒」という名のとおり、バレイに見られるような、優美で躍動的な美しい身体表現を追求するものではなく、むしろ、一見、グロテスクで、病的な表現を一つの特徴とします(もちろん、全部がそうではありません)。最近亡くなった山海塾の天児牛児氏の剃髪・白塗りの身体表現は舞踏の一つの形でした。その開拓者が土方巽(1928-1986)です。暗黒舞踏は、諸説あるものの、1959年、土方巽が制作・出演した「禁色」という小品をもって始まったとされます。内容は、フランスの小説家ジャン・ジュネ(1910-1986)――犯罪者として投獄されたこともある――の描いた男色をモチーフに、三島由紀夫の小説のタイトルを借用し、当時としては社会道徳に反するスキャンダラスなものでした。いずれにしても、その後、土方の始めた新しい身体表現は、「暗黒舞踊」(1961)、「暗黒舞踏」(1965)と名前を変えつつ、「舞踏」あるいはBUTOHとして現代芸術のジャンルとして一つの位置を確立しています。

 土方巽、大野一雄を先駆者とする舞踏の大きな特徴は、その成立に直接的あるいは間接的に関わったのが、ダンス関係者のみならず、その当時の音楽家、画家、作家、詩人、学者、思想家などあらゆる前衛芸術家を巻き込んでいったことにあります。小説家三島由紀夫、フランス文学者澁澤龍彦、写真家細江英公、詩人吉岡実などが最初に挙がる名前ですが、演劇人では1965年にアスベスト館を訪れた唐十郎、同じ東北出身の寺山修司(土方は秋田、寺山は青森)、黒テントの佐藤信も最初期の土方の公演を観ており、それに触発されてダンスを始めました。実際、土方巽は公演を積み重ねて作品を練り上げていく舞踊家・振付家というより、芸術運動の主導者と言ってもいいほど幅の広い活動をおこなっています。舞踏は、現代芸術の諸分野と意識的に寄り添いつつ、自らの可能性を超えることを最初から目指しているという意味で、その発生からしてダンスという一ジャンルに収まらない多様性を内にもった超越境的現代芸術と言えます。その目指すところは、言わば、体制や権威や慣習に飼いならされた世間の常識を覆すことにあり、それが、ジャンルを超えて様々な芸術家と共鳴しあうことができた理由だと思います。

 私は、本塾大学文学部英文科の出身でシェイクスピア演劇を専門としていますが、恩師であり、「母親」でもあった故楠原偕子先生(本塾大学文学部名誉教授、文学部で女性として最初に教授となった方)の導きで、アート・センターに関わらせていただき、舞踏研究に足を踏み入れました。シェイクスピアについては、以前、この「学問のすすめ」で書かせていただきましたが、全く異質に思えるシェイクスピアと暗黒舞踏が、反常識と多様性を土台とした芸術表現の極北という意味で、自分の中では繋がっていることに自分自身でも驚いています。

土方巽の代表作、1972年『疱瘡譚』の一場面。土方巽は、立てない/立たない踊りを表現した。(撮影・提供:小野塚誠)

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