大学や大学院で理工学の知識を獲得し、研究する時間はどのような時間でしょうか?最後の学生生活を謳歌する時間かもしれません。それと同時に、卒業後に待ち受ける変化が激しい世界を有意義に過ごすための思考の原点を獲得する時間だと私は思います。機械工学を専門とする私の研究を紹介しつつ、変化が激しい社会に柔軟に対応するための「学問」の意義を考えてみたいと思います。
再生医療など、培養細胞を使った新たな医療が大きな注目を集めています。たとえば、京都大学の山中伸弥先生が2006年にiPS細胞(人工多能性幹細胞)を初めて開発されたことで体を形成する様々な細胞を体外で生成できる可能性が広がり、治療が困難だった疾患の根治療への期待が高まっています。新たな医療産業としても期待でき、本塾医学部はもちろん、世界中で活発な研究が展開されています。では、機械工学を専門とする私とは無関係な話なのでしょうか?素晴らしい治療効果が報告されつつある現在、課題は治療法の普及です。たとえば、重症心筋梗塞のための心筋再生には10億個の細胞が必要と言われています。つまり、高品質な細胞を大量に培養することが再生医療の普及に不可欠なことがわかります。大量生産、品質管理と言えば機械工学の出番です。私の専門のひとつは超音波工学で、振動を使ってモノを動かしたり、非接触でモノに力を加えたりできます。そこで、超音波を使って培養容器内で増殖した細胞を自動的に剥離、回収したり、大量培養を可能にする技術、移植に便利な細胞シートを生成する技術などを開発しました。自動化という効果だけでなく、容器から細胞を剥離するために広く使われていたタンパク質分解酵素を使う必要もなく、活性の高い高品質な細胞を生成できるメリットもあります。機械工学の基盤が新たな医療産業の普及に貢献できる可能性を示していると思います。
別の例もあります。モノの触り心地を定量的に測定したり、疑似的に再現する触感センシング・ディスプレイ技術はeコマースやアミューズメント、遠隔医療などでの利用が期待できます。聴覚におけるマイクとスピーカの触覚版です。特に、触り心地(触感)に関する技術は発展途上で、触感センサとディスプレイの実現が期待されています。では、触感はどのように知覚されているのでしょうか?たとえば、つるつる、ざらざらと言った触感は、皮膚直下に存在する機械受容器が皮膚に加わった振動を検出して、知覚しています。どのような振動に対して機械受容器が神経発火するかは生理学的にすでに明らかにされています。機械工学者としてその実験結果を見ると、触感センサや触感ディスプレイに求められる振動特性が理解できます。モノを触った時に指に加わる振動刺激を完全に検出したり、完全に再現する必要はなく、ヒトが検知できる刺激のみを検出、呈示できる装置であれば充分だということになります。このように、これまでの研究結果を自分の得意な視点で見直すことで、新たな触感センサや触感ディスプレイを開発しています。
世の中の課題は時代とともに変化します。そうした課題を目にした時、自身が取り組んできた学問が思考のスタートラインを示してくれるのです。