この度は、塾員来往への寄稿という貴重な機会を頂き感謝致します。2017年3月に慶應義塾を巣立ってから、はや4年、現在、私は霞が関で行政官として日々、微力ながら国に尽くしています。博士卒で行政官というあまり例がないであろう道筋に至った経緯を3つの分水嶺として振り返ります。

始めの分水嶺は研究室選びでした。

学部生時代、特に迷うことなく電子工学科を選んだ私でしたが、研究室選びは非常に迷いました。レーザ等を扱う光工学に漠然とした興味が湧いていたこともあり、最終的に、田邉孝純教授(当時は専任講師)の研究室を選びました。田邉教授は当時、企業から慶應義塾に移られたばかりであり、研究室は実験設備も整っていないまっさらな状態でした。積み上げのない研究室を選択したことは、今思えば、チャレンジングだったと思いますが、研究室立ち上げ期にしか得られない貴重な経験が多くありました。例えば、4年生の時に、半導体を扱うためのクリーンルームの設計とその工事を行いましたが、施工業者や設備業者と一緒になって作業したあの夏を鮮明に覚えています。さらに幸運なことに、そのクリーンルームを使用して、自分が設計・作製したデバイスの研究が、国際学会発表、論文誌掲載と一つの形になったことがその後の大きな決断のきっかけとなりました。

クリーンルーム工事の記録(同じ場所から撮影)

2番目の分水嶺はリーディング大学院への参加、博士課程への進学です。

大学院に進学するにあたって、修士までは進むつもりでしたが、博士というのはまだぼんやりとした存在でした。そこに舞い込んできたのがリーディング大学院というプロジェクト。そのテーマを「超成熟社会発展のサイエンス」とし、これまでの博士像を打破し、新しい時代の博士像を提示するという試みを、修士・修士(ダブルディグリー)・博士を5年間一貫プログラムで行うというもの。アカデミアに留まらず、行政や国際機関でも活躍できるような博士像を目指すとのことで、当時から社会課題に対する行政の活動に関心を持っていた私は、上述の研究成果も出ていたこともあり、田邉教授の後押しを得て応募、縁あってプログラムの第1期生として採用されました。プログラムの詳細は省きますが、毎週土曜日がプログラムの活動日で、企業から来られているメンターと共に社会課題の発見、解決に取り組んだり、他学部の教授の指導を受けたりと、苦しいながらも、専門のタコツボに入りがちな大学院生活において、視野を広げ、前向きなマインドを養う充実した訓練になったと感じます。

博士課程は、学部生時代のビギナーズラックで自分の実力を勘違いしていた私には、非常に厳しいものでしたが、周りに助けられながら、なんとか修了することができました。また、留学の機会にも恵まれ、モントリオールやボストンでの研究生活というかけがえのない経験をさせて頂いたことは、私の大きな財産です。

自身が設計した光デバイス

博士課程時の短期留学先のハーバード大学の教授と

最後の分水嶺は行政への道を選んだことです。

行政というのは、身近に知り合いがいないと、なかなか実態が不明なもので、私もリーディング大学院に所属していなければ縁がない世界だったと思います。科学技術政策を通じて、社会課題を解決する仕事をしてみたいと思い、文部科学省に飛び込みました。研究活動を多少なりとも理解している者として、研究現場に寄り添った政策立案業務ができるよう日々努めています。テクノロジーを突き詰めていくのとはまた一味違った面白みのある業務にやりがいを感じています。

現在、私は文部科学省から、内閣府宇宙開発戦略推進事務局に出向して、国の宇宙政策全体を取りまとめる業務をしています。有人の民間商用船が国際宇宙ステーションに向けて打ち上げられたり、小型衛星コンステレーションを用いた通信システムが業界に大きな変化をもたらし始めたりと、ダイナミックな動きの中で、最先端のテクノロジーを理解しつつ、行政活動を進めていくことの重要性を改めて強く認識しながら働いています。

文部科学省の広報資料

プロフィール

加藤 拓巳(かとう たくみ)
(神奈川県立柏陽高校 出身)

2012年3月
慶應義塾大学理工学部電子工学科 卒業

2014年3月
慶應義塾大学大学院理工学研究科総合デザイン工学専攻修士課程 修了

2015年3月
慶應義塾大学大学院医学研究科医科学専攻修士課程 修了

2017年3月
慶應義塾大学大学院理工学研究科総合デザイン工学専攻後期博士課程 修了
(博士(工学))

2017年4月
文部科学省 入省
総務課、参事官(情報担当)付にて文部科学行政に従事

2019年6月
内閣府 宇宙開発戦略推進事務局 主査

現在に至る

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