はじめに

「住田さん、三田評論に写真が載ってますよ。」(2016, 8.9号)と知り合いに声をかけられたのは昨年のこと。第1回理工学部ホームカミングに招かれ、「我々の時代に比べ、矢上台も随分お洒落な研究の場に変貌したものだ。」と感嘆しながら説明を聞いている場面であった。約37年前に博士課程を修了、その後、NTT(当時は電電公社)研究所で約10年(研究職)、海外ベンチャー企業で約10年(何でも担当)、製造会社で約10年(事業責任者)、現在は7年前に起業した光関連の開発・製造・販売会社で指揮をとっています。その間、一貫して大学の研究室で出会った光(レーザ)への拘りだけは捨てず、今に至っております。

将来を見据えてその時その時をACTIVEに!

大学時代(学部~博士課程)<自分の意志で動ける最も自由な時代>

1970年代の初めは、若者達のエネルギーの発露でもあった学生紛争も既に終ろうしている時代であり、拘束も無く自由な大学生活の幕開けの時でもあった。大学3年まではクラブ活動(ハンドボール)に熱中し、仲間達との愉快な大学生活を謳歌しておりました。当時、私自身は決して褒められたプレイヤーではありませんでしたが、この年(64歳)になると技術では無く“まだ動ける”ことが最大の武器となり、同世代の試合では活路を見出せるこの頃です。技術的な成長というより劣化が遅いと言うことでしょうか。

大学4年時にレーザの研究室に入ったのが人生の一つの転機でした。「1954年に発明されたレーザ(メーザ)分野では、まだまだやるべきことは多かろう。」と言うのが研究室選択の一つの理由でもありました。当時は体育会系とも思えるような汗くささも感じさせる研究室であり、研究室そのものが運動クラブの様相を呈していました。その一例が研究室の学生と先生のみで構成されるサッカーチーム、ユニフォームも用意し、その胸にはKLL(KEIO Laser Laboratory)とのロゴ。研究室で最初に与えられた場(配属先)は、恵比寿にある防衛庁第一研究所。学部4年から修士課程に至る2年間、社会人の諸先輩の方々のご指導を受けつつ、研究の進め方、社会人観察等々いろいろ学び考える機会を与えて頂きました。博士課程では共同研究を目的とした名古屋大学プラズマ研究所と慶応大学を1週間毎に車で往来する生活が始まりました。写真はプラズマ研究所に設置した自製の紫外線レーザ(エキシマーレーザ)の前で撮ったものです。当時は金属、プラスチック加工から電源作りと何から何まで手作り、まさにDIYの時代でした。プラズマ研究所は大学とは大いに雰囲気を異にし、物理屋さんとの緊張感ある長~~くも思えた議論の場は特に印象的でした。自分の意思をもって自分で動かないと前に進まない環境に置かれた大学時代の経験はその後の社会生活の肥やしにもなったと思っています。Do not be passive!の生活でした。

慶応レーザ研究所KLL(非公式名)、(筆者は前列右から2番目)

名古屋大学プラズマ研究所、手作りの紫外線レーザの前で

日本電信電話公社(NTT)での研究所時代 <社会人としての駆け出し>

配属先は東海村にある茨城電気通信研究所。大学時代に長年携わったレーザ開発とは異なる光通信ケーブルの設計・測定・評価、さらには光受動部品(平面光導波路)の開発に取り組みました。今でこそFTTH(Fiber To The Home)は当たり前の時代となりましたが、当時は各家庭まで光が届いていない時代であり、NTTの各研究室が一丸となり同じ目的を共有し、いろいろなテーマに取り組む体制は壮観さえ感じさせるものでした。

米国での起業 <挑戦>

バッテル研究所にて(筆者は前列右から2番目)

1987年にNTTの多大なバックアップもあり、担当テーマであった平面光導波路を製品化する会社設立の機会が与えられました。場所は米国の中西部のオハイオ州コロンバス。新会社の成否より初めての海外生活にワクワク感一杯での渡米でした(女房は不安一杯のようでもありしたが・・・結果OK。)。また、英語が堪能である訳でもなく、「何とかなる!」との思いでの渡米でした。(何とかなるものです。)会社設立当初は現地で間借りしたバッテル研究所の方々から公私に亘る多方面でのご支援には非常に助かりました。お陰様で、渡米後約10年、開発した製品も何とか世に出始め、会社として軌道に乗りそうな時代を迎えることとなりました。時をおなじくして時代は通信バブル最盛期、M&Aの盛んな米国では当然の如く会社の売却話もちらほらと。結果、永住覚悟で取得したグリーンカードを放棄し、米国人の懐の深さと浪花節的人情味を感じつつ、“さよならコロンバス”、帰国の途に。この広大で豊かな地で、特に文化の違いを学べたのは一つの大きな成果でしょう。ちなみに成功裏に会社は売却できました。

帰国・再就職と製造業 <次なる目的に向かい>

帰国後は再びNTT研究所で、光コネクタ開発の指揮をとらせて頂きました。自ら経験しまたシリコンバレーで直接見聞きした自由闊達なベンチャー企業精神は忘れられず、将来を見据えた行動をとり始めた時期でもありました。「起業に際し自分に足りないものを補うには?」との熟慮の末、光関連のメーカに再就職を決意し転籍。そのころ既に通信バブルははじけ、転籍後は事業を大きくする担務とは相まって、事業縮小並びに2度のM&Aの旗振り役を経験する苦い時代を経験いたしました。この時期、工場のマネージメントノウハウに加え会社経営をいろいろな角度から見ることができたのは非常に貴重な体験でした。

起業(還暦前)<鶏の頭に>

株式会社オプティ、光通信用部品並びにレーザとその部品の開発・製造・販売を主たる業務とする会社です。大学の研究室、NTT時代、並びに民間企業の方々の多大なご支援もあり、今年起業して7年目を迎えることが出来ております。起業自体は一般的な事例と比べれば年齢的には遅いでしょうが、長寿社会となり健康であればまだまだ活躍の余地はありそうです。

最後に

数か月前の新聞で、“最近の大学生は受け身型の授業を好む”との調査結果が目につきました。失敗を恐れずグローバル且つダイナミックに動けば、その先々で学べたことは将来必ず役立ちます。 Be active!で学生生活を。

プロフィール

住田 眞(すみだ しん)
(兵庫県立長田高等学校 出身)

1976年3月
慶應義塾大学工学部電気工学科 卒業

1978年3月
慶應義塾大学工学研究科電気工学専攻修士課程 修了

1981年3月
慶應義塾大学工学研究科電気工学専攻博士課程 修了

1981年4月
日本電信電話公社 入社、茨城電気通信研究所配属

1987年7月
Photonic Integration Research Inc.(米国、オハイオ州) 設立

2001年4月
セイコーインスツルメンツ株式会社光事業 事業部長

2004年6月
株式会社精工技研 光事業・開発部門 執行役員

2011年9月
株式会社オプティ設立 代表取締役社長

現在に至る

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