中高時代

理系に進んだのは、父や兄が理系で図鑑や科学の啓蒙書、顕微鏡やパソコンなどがごろごろあったことが影響しました。野原が多くあったところで育ったせいか、自然にも興味がありました。中学の頃から山登りを始め、高校に入ってからは剣岳や谷川岳の岩登りや冬山とエスカレートし、山ばかり登っていました。平日はそれなりに勉強しましたが物理と国語を除いて成績は惨憺たるものでした。そんな私を拾ってくれたのは慶應義塾大学工学部でした。

慶應時代

大学に入って山岳同好会に入り、社会人山岳会と掛け持ちで山に行き、登山日数は年間200日を越えました。それなりに勉強したつもりでしたが成績はひどいものでした。2年の春、学校をさぼってヒマラヤに行き未踏峰に登頂しました。当時はプロの登山家になることも考えましたが、その秋に友人が谷川岳で遭難し、人生について考える契機となりました。熟慮し、より根源的なことを探りたいと理論物理学を志すことを決意しました。しかし成績の不自由な学生であった私は語学をほとんど落とし、あえなく留年しました。

留年した1年は精進し、成績表はAで埋め尽くされるようになりました。当時の慶應は物理学科がなく、応用物理に近い計測工学科に進みました。量子力学や相対論などは独学で勉強し、さらに究理すべく思案していたら、物理、化学科が新設され、工学部が理工学部になりました。理論物理系教員で構成された理論研究室に、取ってくれとお願いに行き、4年から拾ってもらえることになりました。そこは上級生がいないのと、教員も赴任したばかりで熱心で、密度の濃い教育を受けました。卒研からは統計力学で著名な久保亮五先生の指導を受けることになり、先生の洞察力の深さに触れ、目から鱗が落ちるような経験を何回もしました。大学院では後輩や助手と夜中の12時からのゼミ(シンデレラゼミ)や、日吉の反対側での各種イベントで充実した生活を送りました。博士に進むころになると久保先生は新規の学生をとらなくなり、議論は先生と助手と私の3人で行いました。そんな中、久保先生の確率過程的理論を、動力学的なモデルから導出し一般化する研究を行いました。導出過程で久保先生にかなり厳しく批判されましたが、それが完成度の高い理論へと結びつき、私の博士論文となりました。1989年に慶應義塾大学物理学科最初で、そして久保研最後の学生として博士課程を修了しました。

Kharchakund峰 6632m 初登頂

三俣蓮華岳

槍ヶ岳北鎌尾根

北岳

米国時代

海外で生き残れるようでないと、自分の目指す研究はできないと考え、博士号取得後すぐにイリノイ州立大学アーバナ・シャンペン校の博士研究員となりました。イリノイ大学のスタッフのレベルの高さと層の厚さには驚嘆しましたが、一方、私が慶應で受けた教育は、国際的にみても最高レベルであったことを自覚しました。英語が下手で苦労しましたが、理想的な研究環境の下で研究に邁進しました。が、研究だけをしていたわけではなく、アメリカ50州の最高地点到達を目ざして旅をし、アリゾナ、ヨセミテ、イエローストーン等の広大なランドスケープを車で走破しました。

そのころ日本に助手で帰らないかという誘いもありましたが、アメリカでやっていくと断りました。しかし当時のアメリカは不況で、さらにソ連崩壊で著名な科学者がきたこともあり就職活動はかんばしくありませんでした。ポスドクとして1ヶ所に滞在することはキャリアとして良くないので、ニューヨーク州ロチェスター大学の化学科に移ることにしました。ロチェスターは寒いところでしたが、散逸系の統計力学の手法をレーザー分光理論に応用するという、いくつかの研究を行いました。この時に提唱した多次元分光の理論は、今でも私の研究の核になっています。

分子科学研究所

渡米して4年ほど経ったころ、愛知県岡崎市にある分子科学研究所で助教授の公募があり、応募しないかと誘いを受けました。渡米したおかげで私の研究は実は物理より化学の方が関連していることを認識し、私の行くべきところはここだと思いました。かなりの激戦でありましたが無事にポジションを得ることができ、94年に日本に帰国しました。分子研は文部科学省の研究所です。分子研が魅力的だったのはその国際性で、日本にいても世界とのリンクを失わずに研究を推進できました。

京都大学理学部

分子研には10年ほどいました。研究上で全く不満はありませんでしが、このポジションは若手のためのものであるし、研究者として次世代を担う学生を教育することも重要な責務と考え、京都大学理学部の化学専攻に移りました。京大理学部は人も組織も極めてユニークで、慶應のような合理的組織で合理的な教育を受けた私には、心が洗われるようなところです。私自身、学術的にも人間的にも様々な経験をしましたが、それを少しでも学生に伝えることができたらと思っています。

最後に

アレクサンダー・フォン・フンボルト賞受賞

物理の基礎を叩き込んでくれた慶應の先生を始め、多くの人にお世話になりました。私自身、やりたいことをやって生きてきただけで、謝るようなことはあっても、人に誇るようなことはありません。が、見通しのないまま訪れた幾つかの転機を、逃げずに向かっていったことについては、自分自身満足しています。

プロフィール

谷村 吉隆(たにむら よしたか)
(巣鴨学園高校 出身)

1984年3月
慶應義塾大学工学部計測工学科 卒業

1986年3月
慶應義塾大学大学院理工学研究科物理学専攻修士課程 修了

1989年3月
慶應義塾大学大学院理工学研究科物理学専攻博士課程 修了

1989年4月
イリノイ大学アーバナ・シャンペン校ベックマン研究所 博士研究員

1992年10月
ロチェスター大学化学科 博士研究員

1994年4月
岡崎国立共同研究機構分子科学研究所理論研究系 助教授

2003年6月
京都大学大学院理学研究科化学専攻 教授


◆受賞
2002年
分子科学研究奨励森野基金

2012年
アレクサンダー・フォン・フンボルト賞

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