私は現在、宝酒造の松戸工場で清酒の製造管理をしています。毎日、もろみの様子を見たり、貯蔵中の原酒の熟成具合を確認したり、最終的に出荷される製品の官能検査(味・香りの確認)をするのが主な仕事です。プロフィールをご覧頂くと、生命情報学科とあり、「生命科学を学んで、何故醸造?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
確かに、私が所属していた応用細胞生物学研究室では抗がん剤を使った研究を多く行なっており、卒業生の多くは製薬会社の研究職や生命科学分野の研究者として活躍されています。その中では、酒造会社で醸造に携わるというのは進路としてかなり異色であるのは間違いないでしょう。ですが、学生時代に学んだことは現在の仕事に深く関わっていますし、大いに役立っています。今回は、その辺りについてお話ししていきたいと思います。
清酒造りの基本的な流れについては
弊社ホームページ
をご覧頂くこととして(笑)、もろみの仕込みを終えて酵母による発酵が始まると、発酵を制御する方法は基本的にもろみの温度調節しかありません。同じ米、同じ酵母を使っていても、毎回発酵の進み具合は微妙に異なっており、温度調節によって目指す酒質を得られるよう調節しています。発酵がうまく行かないと酵母中に代謝の中間物質のピルビン酸が多く残ってしまい、つわり香と呼ばれる不快臭の原因となることがあります。料理用の清酒の場合は発酵の初期、タンク内に酸素が残っている時期にクエン酸回路を用いた代謝が行なわれ、調理効果のある有機酸が生成するため特に気を使います。
もろみの様子を見ながら、クエン酸回路や解糖系を気にする毎日。醸造とは、有機化学・生化学・細胞生物学にまたがる科学なのだと実感します。
業務風景(アルコール分析)
業務風景(蒸米のチェック)
皆さんは「生酛(きもと)造り」「山廃(やまはい)仕込み」といった言葉をご存知でしょうか? どちらも、伝統的な酵母の育成方法なのですが、知れば知るほど高度なバイオテクノロジーが用いられていることに驚きます。
これらの酵母の育成法は、硝酸還元菌や乳酸菌をうまく誘導して雑菌が繁殖できない酸性の環境を作り、その中で酵母を増やしていく。そして、酵母がアルコールを作り出すと、乳酸菌も死滅して純粋に酵母だけを増やすことができる、というものです。
他にも、アルカリ性の灰の中で麹カビを純粋培養したり、パスツールによる低温殺菌法の発見の200年以上前から「火入れ」という名で低温殺菌を行ない、貯蔵中の清酒の劣化を防いでいたりなど、枚挙に暇がありません。
醸造と微生物学がともに発展してきたことが伺われます。
先日、醸造関係のシンポジウムに参加してきたのですが、その中で清酒酵母に関する、非常に興味を引かれた発表がありました。
清酒は世界の醸造酒の中でも20%以上という非常に高いアルコール濃度まで発酵が進む酒です。その発表では、清酒酵母の特徴について、実験室酵母とのゲノム比較や遺伝子発現量の解析など分子生物学的手法から解析していました。その中で、私が学生時代に研究対象としていた熱ショックタンパク質遺伝子の関与も示唆されており、今後の展開が非常に気になります。
生命科学を専攻した身としては、分子生物学の視点で醸造の謎を解き明かしてみたいと思わずにはいられません。
私は分子生物学を専攻し、現在清酒の醸造を仕事としています。「抗がん剤の研究をして製薬会社へ」「醸造学を学んで酒造会社へ」というような進路と比べると、多少畑違いの分野に飛び込んだものだなあとも思います。ですが、畑違いだからこそ新鮮で面白いこともありますし、学んできた知識や考え方はあれこれと例を挙げてきたようにつながりを持って活きています。
大学受験や就職活動など進路の分岐点に立っている方は、やりたいことに対する強い思いや情熱を持っていることと思います。ですが、やりたいことに対する「思い入れ」が「思い込み」になってしまっていませんか?「これがやりたいんだ」という強い思いが、逆に自分自身の可能性を限定してしまっている、なんてことはありませんか? 得意分野のど真ん中を突き進むのも良いですが、畑違いの分野に飛び込んでみるのも面白い。私がそうであるように、それまでに培ったものは必ずつながりを持って活きてくると思います。
学生時代の実験室1
学生時代の実験室2
大学4年生 井本研究室の夏合宿にて(鬼怒川川下り)
右下隅が飯野 左下が井本先生
大学4年生 井本研集合写真 最前列左から2番目が飯野
飯野 悠介(いいの ゆうすけ)
(慶應義塾高等学校 出身)
2005年3月
慶應義塾大学理工学部生命情報学科 卒業
2007年3月
慶應義塾大学大学院理工学研究科基礎理工学専攻修士課程 修了
2007年4月
宝酒造株式会社 入社
現在に至る