慶応義塾矢上台校舎との初めての出会いは、中学2年の頃に電気科の研究室を見学させてもらった時でした。科学部の部長を務めていた理科少年として、ぜひ大学を見てみたいと工学部に在籍していた父の従兄弟にお願いしたのでした。コンピューターに接続された大型プリンタから活字で描いた和服の女性の絵が次々と打ち出される様子を見て、大変驚いた記憶があります。大学は、ぜひ工学部に進みたいと思ったものでした。大学受験では、苦手だった英語で苦労しましたが得意な数学に助けられました。慶応の試験は数学が満点だった筈で、合格発表を待たずにすっかり入学する気になっていた記憶があります。
宇都宮の男子校から入学した学生にとって、共学の慶応日吉キャンパスの生活は見るもの全てが珍しく、早慶戦/三田祭など学内イベントで発揮される諸先輩の行動力に感心したものでした。この時期はピアノクラブというサークルの活動が生活の中心になってしまい、幅広い知識は身につきましたが、気がつくと教室に行っても専門の授業内容は判らないという不名誉な状態になっていました。幸いなことに、応用化学科に進んだ3年次には、山口喬先生の名講義に引き付けられた化学熱力学とその延長線上の学問である電気化学の2科目に特に興味を持ち、研究室を尋ねて先生に質問をさせてもらうところまで復活しました。この2科目に興味を持ったことが、12年後の研究経歴を大きく変えることになります。
4年次の研究室選択では、電池に興味を持っていたことから電気化学研究室に入りました。当時はリチウム電池がまだ実用になる前で、電極材料の選択が電池の出力と充放電の繰り返し特性に対してどのような影響を与えるかを研究していました。リチウム電池が携帯電話やパソコンの電源として当たり前のように利用されている現在の状況は、隔世の感があります。研究室の雰囲気は極めて家族的で、研究に没頭する男子学生に彼女を探させるためのクリスマスパーティーというイベントがあったのは驚きました。必ず同伴者を連れて来るという厳格なルール?に修士課程を修了するまで苦しみました。それに比べると修士2年春の就職活動は、指導教授と諸先輩のおかげで楽なものでした。知人から聞いていた現在の勤務先である東芝の社風と、研究所が大学から距離的に最も近いという単純な理由に魅かれてあっさりと決めてしまい、東芝1社しか訪問しませんでした。
電池特性の測定(1983年)
東芝の採用面接では、エネルギー問題に関わる仕事をしたいと訴えて研究所への配属を獲得した訳ですが、最初に配属された部署は蛍光材料の研究チームでした。ここでは、主に当時普及し始めた三波長型蛍光ランプの改良に関する仕事を約4年間担当しました。蛍光材料は発光効率を高めるために基本的には自らの色調が純白であることが要求され、電気炉と坩堝を用いる固相反応の実験を繰り返しました。良く考えてみると学生時代に実験で扱っていた黒い粉が白い粉になり、電池特性の測定が分光測定に変わった程度の変化で、リチウム電池の研究と極めて共通性が高い研究でした。会社は人事配置を良く考えているなと変な感心をしていたことを思い出します。
その後、研究所の組織が変わることになったタイミングで、本来のエネルギーの仕事に近い燃料電池の研究チームへの異動を希望して、第二世代の燃料電池といわれる溶融炭酸塩形燃料電池の開発を担当しました。ここでは、電解液を保持するためのサブミクロンの多孔質体である電解質板が燃料電池の運転と共に劣化してしまうという問題に対して、有効な対策を探し出すことが求められました。最終的には、γ相リチウムアルミネートという物質を燃料電池の運転条件で熱力学的に安定なα相リチウムアルミネートに変えると大幅な改善が得られることを発見、この成果に対して研究チーム6名で電気化学会から表彰を頂きました。
一方、この陰には失敗した実験も多数あります。その中に、リチウムアルミネートにリチウムジルコネートを混ぜるという実験がありました。アルミナ系とジルコニア系のセラミックスの相性が悪いことが知られているため、これらを混ぜると電解質板の劣化が抑制できると考えたのです。しかし、結果は大失敗。リチウムジルコネートは650℃の燃料電池の中で二酸化炭素と反応して別な物質に変化してしまいました。この時、12年前に興味を持って勉強した化学熱力学が活躍しました。即座に、燃料電池の中で二酸化炭素と反応しないリチウムアルミネートとリチウムジルコネートの違いは熱力学的な性質の違いであり、二酸化炭素との反応の上限温度がリチウムジルコネートの方が高いためこのような失敗に至ったと理解しました。
そして発想の転換です。高温の燃料電池の中で二酸化炭素と反応するならば、高い温度で二酸化炭素を吸収する吸収材が出来るのではないかと考えました。当時、温暖化対策として二酸化炭素を分離回収する技術の開発が国家プロジェクトとして進められており、特に350℃以上の高温ガスから二酸化炭素を除去するとエネルギー効率が良いと言われていました。早速、燃料電池の研究とは別に二酸化炭素の分離の研究を勝手に開始してしまいました。東芝には10%程度の研究リソースを研究者が自由に使ってよいというアンダーザテーブル研究の伝統があり、これを最大限に活用させてもらった訳です。
社内の事業部門の支援を受けられるようになると、正式な研究チームとして認められるようになり、研究の軸足を燃料電池から二酸化炭素の分離の研究に移してゆきました。学生時代の電池材料の知識も活用して有望な吸収材の候補材料の探索を進め、公表当初から新聞などで多数報道される注目された研究となりました。米国セラミックス学会などの表彰も受賞しました。現在も、世界で多数の研究者が東芝の研究者と共にこの発想を支持して広げるための研究を続けており、近い将来、この吸収材が産業社会の様々な場面で活用されることを確信しています。
The American Ceramic Societyの表彰(2001年)
2003年から管理職になり、研究開発を直接に進める立場から研究開発の方針と成果の活用を考える立場に変わりましたが、大学3年次に興味を持った化学熱力学をきっかけに予想を超えて面白い展開となった約20年間の研究経験は深く誇りとしているものです。管理職の仕事では研究開発と異なり、社会的な事象と人間的な事象に注目して仕事をするように変わりますが、広く理解している知識と深く理解している学問との組み合わせが重要であることは変わりません。幅広い知識が無いと発想は転換できず、深い得意な学問が無いと発想が他人と同じになってしまうのです。これから大学における学問の道を進んで行く後輩の皆さんも、サークル活動など授業以外の活動で幅広い知識を獲得すると共に、個性を発揮する場面で武器となる得意な学問をぜひ身に着けていただきたいと思います。日吉の矢上台という丘の上にある本塾理工学部では、この両方に出会える素晴らしい機会が多数待ち構えている筈です。
中川 和明(なかがわ かずあき)
(栃木県立宇都宮高等学校 出身)
1984年3月
慶應義塾大学工学部応用化学科 卒業
1986年3月
慶應義塾大学大学院工学研究科応用化学専攻修士課程 修了
1986年4月
株式会社東芝 入社
1999年7月
同社 研究開発センター 給電材料デバイスラボラトリー主任研究員
2002年3月
慶應義塾大学大学院理工学研究科より博士(工学)取得
2003年4月
同社 研究開発センター 環境技術ラボラトリー室長
2006年1月
同社 マーケットクリエーション部 新規事業開発担当グループ長
現在に至る
受賞
1998年4月
電気化学会技術賞・棚橋賞
2000年5月
日本ファインセラミックス協会技術振興賞
2001年4月
The American Ceramic Society "R. M. Fulrath Award"
2006年6月
本塾大学理工学部・理工学研究科同窓会表彰