「独立自尊 義塾と私」

高校・中学そして小学校の皆さん、慶應義塾はとっても楽しいところです。頑張って勉強して義塾に受かってください!目指すのはもちろん理工学部矢上校舎ですよ。(大学院は是非、某大学の秩父研究室を受験してください。なんて。)

私は中等部から大学院まで、「延べ」16年も塾に通いました。受験の心配が無かったので、中等部から大学(院?)まで、勉強よりもバスケットボールをしていた記憶ばかり残っています。大学では理工学部のバスケ部に入り、研究室に配属されてからも4年の秋まで現役選手でした。中等部時代からの困った友人も一緒で、合宿や飲み会の事は今でも鮮明に思い出せます。良い仲間に恵まれていました。オートバイも好きだったので、試験場で限定解除しました。3年次には、矢上の駐輪場で朝ばったりと会ってしまった友人と、講義棟に向かわずそのまま湘南まで出かけたことが度々、、、いえ、そんな事は。。。とにかく、沢山遊びました。もちろん「イヤ!」と言うほど勉強もしたので好成績だった事にしておいてください。

さて、私が大学に入る時は、系列で入学して3年生になる時に学科に別れるシステムでした。高校の頃は「機械科で内燃機関を勉強して日産自動車に入る」なんてうっすらと考えていましたが、何を思ったか、あまり好きではなかった電気工学科を希望し、よく理解できなかった「物性工学」ゆかりの半導体の研究室に入りました。負けず嫌いだったのかもしれません。これは後になって会社を辞め博士課程に復学し、学位を取る頃に感じたことですが、「チャレンジすると人間は成長する」の法則があるんですね。ともあれ、義務を果たし責任履行の上で自由を得る「独立自尊」の基本精神を学べた事が、慶應義塾から受けた最大の教育だったのではないかと思います。若い皆さん、何でもトライしてみましょう(まずは慶應義塾の受験から!)

「ターニングポイント」

幼稚園から大学院修士まで世田谷区に住んでいたので、修了後も東芝の総合研究所(川崎)に入社しました。2年目には結婚して横浜に転居。職場も居心地良く、ずっと東芝に居るんだと思ってました。誤って一念発起してしまうまでは。

会社の仕事にも慣れてある程度こなせるようになると、他の人でも替えが利く仕事をしている自分にだんだんと不満が溜まってきます。「このままで良いんだろうか」なんて生意気に考えたりします。「誰もやっていない事とか、できるかわからないようなチャレンジングな事をしたいなー」と思い始めると、もう止まりません。「自分にもできるんじゃないだろうか」と、無謀にも考え始めます。若かったんですね。東芝の皆さんごめんなさい。90年の春に会社を辞め、自分で考え自分でやらないと進まないようなテーマを選んで博士課程に復学しました。さる難合成材料(カルコパイライト型半導体)の研究です。

「チャレンジすると人間は成長する」はずですが、それは決して楽な道ではなく、最初はいうなれば負け続きの人生を送らなくてはなりません。結構悔しい、屈辱の日々が続きます。へこみます。傷みます。けれど、挑んで越えないと将来が開けないように退路を断ってしまったので「やるっきゃない」のです。こうなると生来ぐうたらな私でも、回転の遅い脳を人の倍の時間回し、無い知恵を絞って頑張ります。会社を辞めてお金が無くて、古アパートで隙間風が吹いても、お腹の子供のミルク代が心配になっても、2年以上成果が出なくても、夢を持っていれば気合で頑張れます。「諦めない限り夢は果てない」を体感できたのは3年目の5月。11月にはそれなりに世界一の結晶をつくることができ、周回遅れで学位を取得できました。

「転勤族?」

ここで東京を離れ、東京理科大学(千葉県野田市)の期限付き助手になります。最近は期限付きポストが一般的になりましたが、将来の定まらない立場は良くも悪くも精神的プレッシャーがかかり続けます。義塾に関係無いので詳細は省きますが、95年からは青色発光ダイオードの中村修二さんや早大の宗田孝之さんとの共同研究も始まり、ベルリンやサンタバーバラでの研究生活も送ります。沢山の仲間に恵まれました。しかし、98年10月に「来年度の講師昇進無し」を通告され「期限切れ」のピンチを迎えます。即座にFA宣言して99年4月に筑波大採用。9年ぶりに将来の見えるポストで研究室を持つことができ、今に至ります。それまでに7回も引越して根無し草になれましたから、もうどこに居ても怖くありません。色々な事にチャレンジし、多数の公募にも応募してきたので、沢山負けてきました。この負け数の多さは自慢していいと信じてます。学生の皆さん、若いうちにいっぱい負けてください。それはチャレンジしている証。自分に枠をはめて可能性をつぶすことなく、自分を信じて人生を楽しんでください!

※ 本稿公開後の2007年2月より、秩父さんは東北大学の多元物質科学研究所に教授として転籍されました。(HP編集委員会)

大学4年のバスケ部夏合宿です。みな、楽しそうでしょう?

温泉旅行・地獄谷にて。男ばっかりですみません。

2006年春 筑波大 秩父研究室メンバー。みんな楽しく根性入れて頑張っています。

2006年5月 パリ・凱旋門にて。青色LED,LD国際会議に連れていった研究員・学生と。

2006年9月 ヘルシンキにて第2回ミレニアム技術賞を受賞されたばかりのカリフォルニア大中村修二教授(中央)とERATO中村プロジェクトのグループリーダーズ(左:大川和宏さん、右:秩父)

プロフィール

秩父 重英(ちちぶ しげふさ)
(慶應義塾高等学校 出身)

1986年3月
慶應義塾大学理工学部電気工学科 卒業

1988年3月
慶應義塾大学大学院理工学研究科電気工学専攻 修士課程修了

1988年4月
株式会社東芝 総合研究所 電子部品研究所 光半導体デバイス担当

1990年4月
慶應義塾大学大学院理工学研究科電気工学専攻博士課程
[94年3月修了・博士(工学)]

1994年4月
東京理科大学理工学部電気工学科 嘱託助手
(99年3月まで。99年度非常勤講師)

1995年10月
通産省工技院電子技術総合研究所 材料科学部非常勤研究員
(~2000年4月)

1997年2月
独 国立ハーンマイトナー研究所訪問研究員
(~1997年3月)

1997年9月
米 カリフォルニア大学サンタバーバラ校材料科学部常勤訪問研究員
(~1998年9月)

1999年4月
筑波大学助教授 物質工学系(5月 物理工学系配置換)

1999年10月
理化学研究所フォトダイナミクス研究センター非常勤研究員
(~2006年3月)

2001年10月
科学技術振興機構 ERATO中村不均一結晶PJ評価グループリーダー

現在
筑波大学助教授 大学院数理物質科学研究科
電子・物理工学専攻(ERATO兼務)

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