私の慶應義塾大学での学生生活を思い返すと、大学3年まで自由に過ごした3年間と、大学4年から修士卒業まで研究室で過ごした濃密な3年半の2つに大別されると思います。
ライフセービング仲間と
私の中で大学生活は、やりたい事が何でも出来る場所と言う印象を持っています。サークルに打ち込む人、勉強に没頭する人、学外活動に精を出す人等、様々な人がいました。
私にも色々な思い出がありますが、一つ挙げるとすれば、ライフセービングという海辺での人命救助活動に従事していたことです。私の所属するNPO法人九十九里ライフセービングクラブは、学生から社会人まで、大学の枠を超えた活動を行っていましたので、多くの人と出会い、多くの事を学ぶ事が出来ました。海水浴場が開く約40日間の間、海水浴場における無事故という共通の目標の下にメンバーと喜怒哀楽を共有するという経験は、今でも新鮮に蘇る貴重な体験と懐かしい思い出です。
また、それに加え、大学生活では海外旅行もよく行くことが出来ましたし、思い残すことはないと思う位充実していたと思います。
それもあってか、大学3年末の研究室配属からは、研究に没頭すると自分の中で決めていました。エネルギー関連の研究を行いたいという思いから、菱田公一教授の研究室の門を叩き、熱流体力学、特に二相流という物が入った複雑な流れ場の研究を行いました。二相流の簡単な例を挙げますと、エンジン内の空気とガソリンの混合、火力発電に見られる細かく砕いた石炭が混ざった空気の流れや自然界における砂嵐などがあります。これらの流れ場はとても複雑で、数値シミュレーションがまだまだ、正確であるとは言えません。発電やエンジン内の高効率化を目指すときに、このような流れの詳細解明が必須となります。研究は、当時国立研究所にいらっしゃった同窓の佐藤洋平博士(現慶應義塾大学助教授)との共同研究プロジェクトと言う形で行われました。佐藤先生には研究と根性論を叩き込んで頂き、今の人生観に大きな影響を与えたことは確かです。
また、研究室生活の中で一つの大きな出来事が、スタンフォード大学への交換留学です。前々から希望していた留学が、修士2年の6月から3月までの約10ヶ月間の研究を行う文部科学省主催の最先端分野学生交流推進制度という形で実現しました。交換留学受け入れ先は、菱田先生と親しいスタンフォード大学 Eaton教授の研究室です。アメリカでは、文化的な背景に戸惑うことこそ少々在りましたが、研究生活は至って順調でした。これまで研究室で積み重ねていたことがそのまま使え、スタンフォードの修士の学生と比べても、研究面で劣る気がしなかった事を覚えています。研究のイロハを叩き込んで頂いた菱田先生、佐藤先生に本当に感謝しております。その後、交換留学中の研究成果をEaton教授に評価して頂き、スタンフォード大学博士課程に入学、現在に至ります。
研究室集合写真
最後に、「塾員来往」というこの機会に、塾員の来往、すなわち塾員再会と出会いについて少し書きたいと思います。毎年多くの慶應義塾大学卒業生が社会へと巣立ち、日本はもとより、世界各地でご活躍されていることは周知かと思いますが、現在住むシリコンバレーにても、塾員来往の不思議さを身を持って感じました。
初めての来往を予感させたのは、渡米数ヶ月前のことです。諸井真太郎君というサークル同期のシリコンバレー駐在が一足先に決まりました。日本でともに過ごした同期とのアメリカでの再会は、感慨深いものがありました。またその後少したって、研究室生活の苦楽を共にした菱田研同期の黒澤亮君が、パイロット訓練生としてスタンフォードから車で約一時間北に位置する会社の寮に移って来ました。彼と私は趣味の範囲内ですが波乗りが好きなので、よく海で会います。特に待ち合わせをしなくても、ばったり会うこともしばしばです。さらに3人目は、第30回塾員来往執筆者の梅田望夫さんです。梅田さんとは、シリコンバレーにてひょんなことからお会いする機会があったのですが、塾員来往というキーワードでまた繋がりました。まさか執筆されているとは思いませんでした。
以上のように、異国のシリコンバレーにいても大学時代の友人との再会がありました。何処にいても、塾員の来往があるでしょう。その度に大学生活を懐かしく思い、そして切磋琢磨して行くのだと感じました。
田中 智彦(たなか ともひこ)
(國學院大學付属久我山高等学校 出身)
2001年
慶應義塾大学理工学部システムデザイン工学科 卒業
2002年
文部科学省 最先端分野学生交流推進制度にてスタンフォード大学へ
2003年
慶應義塾大学大学院理工学研究科修士課程修了
2003年
スタンフォード大学工学部機械工学科博士課程入学