©近藤淳也

私は幼稚舎から慶應義塾で育った。幼稚舎は六年間クラス替えがなく、普通部も三年間クラス替えがなかった。塾高は毎年クラス替えがあったのだが、幼稚舎時代からのいちばんの親友・友岡克彦(現・東京工業大学助教授)とは、小中高の十二年間、なぜか一度も同じクラスになったことがなかった。

共に工学部を志望していた私たち二人は、一度くらい同じクラスになって思う存分遊ぼうかと、悪巧みをした。

高校三年時の第二外国語は私がドイツ語、友岡がフランス語だったのだが、二人ともロシア語を第二外国語に工学部への推薦を申し込むことにしたのだ。どうせロシア語なら不人気で一クラスしかなかろうと。ならば必ず同じクラスになるはずだと。

クラス編成と出席番号の発表を見たのが入学式の日だったのか、その前後だったのか、定かな記憶はない。しかし発表を見て、私たちは少し不安になった。同じクラスになったのはいいのだが、友岡の出席番号が異様に若いのである。あいうえお順(「と」)でもアルファベット順(「T」)でも、友岡の出席番号はかなり大きな数字になるのが普通だ。それが「7」だか「8」だか、いずれにせよ一桁だったのだ。

クラスの最初の集まりでその理由が判明した。一学年18クラスの尻尾にぶらさがった「工学部ロシア語クラス・1年R組」は、わずか13人しかいないクラスだった。しかも「ロシア語は楽だと聞いた」という理由で志木高から上がってきた者が5人もいて、男ばかり13人のうち「邪心ゆえにロシア語を選択した内部進学者」が半数以上という、しょうもない集団になってしまったのだ。1979年春のことである。

しかし、25年以上たった今振り返ってみると、R組の仲間たちと日吉で過ごした2年間こそが、宝石のような時間だった。

私たちは皆、いつもいつも一緒にいた。試験といえば本当に皆で助け合ったし、担任の早川先生(むろんロシア語の教授だ)を囲もうとか、何か理由をつけては、飲み会ばかりやっていた。大学二年の冬、私の父が逝去したときも、R組の仲間たちが本当に親身になって励まし、力になってくれた。

楽しい日々だった。でもロシア語ができるようになった者など、R組には一人もいなかった。

慶應にそのまま残って大学の先生になるのが当時の私の夢だったのだが、20歳のときの父の死をきっかけに、いろいろな偶然が重なって、学問を究めていく道を選ばず、ビジネスの世界に転じることになった。

そして1994年に日本を離れてシリコンバレーにやってきた。1997年にシリコンバレーでコンサルティング会社を、2000年にはベンチャーキャピタルを創業し、現在に至る。大学を卒業して以来、無我夢中で走ってきて、昔の仲間たちと集まる機会など全くなかった。

ところで、本欄でこんな思い出話を書かせていただくことになったきっかけも、R組の仲間の一人・原田哲志(現・JFEスチール)がもたらしてくれたものだ。原田が、本欄担当の澤田達男教授に「梅田に書かせたらどうか」と紹介してくれたのである。

澤田先生から「大学時代の思い出について自由にお書きください」とのリクエストを受け、何を書こうかとあれこれ考えたけれど、結局R組のことしか思いつかなかった。私の工学部の思い出といえば、R組の思い出とほぼすべて重なるのである。

これも何かの縁。久しぶりにR組の皆で集まれればなぁと思う。

プロフィール

梅田望夫(うめだ もちお)
(慶應義塾高等学校 出身)

1983年
慶應義塾大学理工学部電気工学科 卒業

1985年
東京大学理学系大学院情報科学修士

1994年
渡米。シリコンバレーへ。

1997年
コンサルティング会社・MUSE Associates創業。

2000年
ベンチャーキャピタル・Pacifica Fund設立。共同代表に。

2005年
(株)はてな取締役。

◆著書
「シリコンバレーは私をどう変えたか」(2001年、新潮社)
「ウェブ進化論」(2006年、筑摩書房)

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