先日、久しぶりに矢上キャンパスを訪れました。2005年の慶應義塾大学理工学部同窓会研究・教育奨励基金による表彰者の一人として式典に出席するためでした。世界的に活躍されている本学部卒業生の方々と同席できる栄誉を賜り、最良の一日を過ごすことができました。北里一郎同窓会会長から賞状を授与された時の感激は一生の思い出になります。 人生を左右する岐路は誰にでもあるでしょうが、私の場合は慶應義塾大学理工学部への入学でした。毎日が規則的な高校生活しか知らなかった私にとって1、 2年生の期間は少し怖いほど自由でしたが、やがて、望めばどんなことでも学べる環境にあることを知りました。憧れであった「独立自尊の精神」は、「自己責任の土台の上に花開くもの」だと肌で感じました。

北里同窓会長から表彰される大熊さん(2005年6月20日)

3年生になるときの学科分けでは、新設の化学科を志望しました。教養時代の講義で多くの化学科の先生に教えていただきましたし、「化学科一期生」となることに大変な魅力を感じたからです。化学科での学生生活はとても恵まれていました。私たち学生は勿論のこと、先生方にも初めての試みばかりでしたので、毎日が快い緊張感と期待感に満ちていたように思います。私にとってとても幸運だったことは、研究室配属のために十分な時間と判断材料を与えていただけたことです。大学院から化学専攻に入学した先輩以外に学生はおられなかったので、学部3年生の頃には自由に研究室に出入りすることができました。先生方の研究に対する情熱を直接うかがうことができましたし、研究の様子も目にすることができました。研究室のセミナーや講演会にも参加させていただきました。

研究室の仲間とスキー旅行

このように研究室を訪問させていただいているうちに、新しい有機合成反応の開発に興味をもち、研究室配属では故土橋源一先生の研究室を希望しました。土橋先生のお人柄に惹かれたことも大きな理由の一つでした。現在、私は北海道大学の教員を務めておりますが、学生に対する姿勢は土橋先生を見習うように心掛けています。先生はハウスの厚い教科書を携えて講義室に入って来られ、有機合成反応の醍醐味を教えて下さいました。私の質問にいつも適切かつ丁寧な解答を示して下さいましたし、講義を終えたその直後に具体例を図書館の文献で示して下さったこともありました。先生の優しさの中に潜む情熱は、とても真似できそうにありません。

有機化学系の研究会にて(約20年前の太田先生(助教授)、西山先生(助手)、只野先生(助手)、東工大鈴木先生(助手)の姿が見えます)

研究室での生活はとても充実していました。当時、助手を務めておられた鈴木啓介先生(現東京工業大学教授)に直接ご指導いただきました。しばしば朝9時30分の集合時間に遅れて叱られたものでした。今思うと、私は随分生意気な学生で、先生には迷惑ばかりかけていました。卒業研究のテーマは、土橋研究室で開発された反応を鍵段階とするエルダノリドと呼ばれる昆虫フェロモンの合成でしたが、「新反応開発を目的とするテーマではないからやりたくない」と我が儘を言った程でした。結局はこのテーマをいただき、トータル10段階の合成を総収率30%で完了いたしました。この結果を基に、私の記念すべき第一号の論文を先生に作成していただきました。その頃には、現金なことに、自分は立派なテーマをいただいたのだと同級生に話していました。

修士論文の発表会です

研究室に在籍した三年間で最も印象的であり、かつ有り難かったことは、修士2年生の春に自分で新しい反応を探す経験をさせていただいたことです。テーマを選ぶために半月程図書館に籠りました。知識の乏しい私にとって、これは大変な作業でしたが、世界の研究の動向に目を向ける良い機会となりました。有機化学の分野で、今何を成すべきか真剣に考えました。この頃、名古屋大学の野依教授が発表された「不斉触媒反応の研究」を知り、名古屋大学の博士課程に進学する契機となりましたし、現在も私の主たる研究テーマとなっています。

さて、テーマを決めたら次は実践ですが、結局、自分の思い描いたシナリオはことごとく失敗に終わりました。現実が甘くないことを実感しました。しかし、うまくいかなくても腐らずに実験していればいいこともあるもので、転機は思い掛けないところでやってきました。原料を合成する目的でケイ素を含む化合物に対して既知の反応を行なったところ、予想しなかった骨格転位生成物が得られたのです。自分の手で初めて新反応を見つけた瞬間でした。言葉にならない興奮と満足感を覚えました。私が現在も有機合成化学の研究を続けているのは、この新しい発見をした時の高揚感が忘れられないからかもしれません。今では立場や経験がこの頃と全く異なりますが、新しいことに挑戦する姿勢は変わらないものです。

理工学部同窓会表彰式で講演を行う大熊さん

7月の札幌はまことに快適です。今も開いた窓から涼しい風が送られてきます。向いの実験室では、昔の私のように、学生たちが新反応の実現を目指して研究しています。私が慶應義塾大学で先生方から贈られた「夢見る心」と「目的を実現する強い意志」を彼らに伝えていきたいと思います。

プロフィール

大熊 毅(おおくま たけし)
(群馬県立前橋高等学校 出身)

1985年3月
慶應義塾大学理工学部化学科 卒業

1987年3月
慶應義塾大学大学院理工学研究科修士課程 修了

1991年1月
名古屋大学大学院理学研究科博士課程後期課程 修了(理学博士)

1991年3月
米国スタンフォード大学化学教室博士研究員

1992年3月
新技術事業団・野依分子触媒プロジェクト 研究員

1996年10月
名古屋大学大学院理学研究科 助教授

1998年2月
有機合成化学奨励賞 受賞

2000年2月
有機合成化学エヌ・イー ケムキャット研究企画賞 受賞

2004年6月
北海道大学大学院工学研究科 教授

2005年6月
慶應義塾大学理工学部同窓会研究・教育奨励基金による表彰者

現在に至る

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