ニューヨーク州ロングアイランドの春は美しい。長くて暗い冬がおわると、日の出てる時間が急に伸びて、花が一斉に咲き始める。淡い緑の葉がでてきたかと思うと、あっという間にもこもこの森になってしまう。この植物達がいっせいに伸び始める春は、すべてが活き活きとして見え、人々もなんとなくうきうきとしてサイクリングをしたり歩き回ったりと春を楽しむ。気がつくと私達家族が、ここロングアイランドのコールドスプリングハーバー研究所に来てから、もう5回目の春だ。これが、コールドスプリングハーバーで過ごす最後の春でもあり、今年7月からはノースカロライナにあるデューク大学医療センターに移ることになっている。長い冬には、本当に辟易として、暖かいノースカロライナにいかれることを喜んでいるのだが、その反面この美しい春をみるのも最後だと思うと、やや寂しく感じる。

木下先生(中央、現・早大理工学部教授)を囲んで研究室の仲間

コールドスプリングハーバー研究所では、いわゆるポスドク研究員として、神経細胞にあるシナプスを顕微鏡でのぞき、記憶の分子メカニズムを調べている。なんで物理学科出身の私が、神経の研究をやっているのか、と思われる人もいるかもしれない。しかし、実際今生物学は物理の発想を必要としており、いわゆる「生物物理」はホットな分野なのだ。私が生物物理とであったのは、まだ私が慶大の学生のころに行われた1つのくじびきによるものだ。慶大の物理学科は、卒業研究の所属研究室を決めるさい、希望者が多すぎるときに、くじ引きをやる。物理といえば素粒子物理、という固定観念のあった私は、とりあえず理論物理を希望したが、そのくじで敗れたのだ。その後もくじに負けつづけ、10個の研究室のうちの第10志望、生物物理の木下研究室に所属となったわけだ。もちろん、いまだに生物物理をやっているのは、このとき木下一彦研究室(現在、木下先生は早大理工学部教授)でみた、「生体分子の動き」に感動したためでもある。私にとっては”Fortunate bad lack”という言葉がぴったりなこの物理学科のくじ引きであったが、いまだに行われていると聞く。

チェンバロ演奏に明け暮れていた学生時代

さて、生体分子は、これこそ生命と物の境目のものだ。生物をどんどん細かくしていくと、原子になる。原子は生命ではない…と思う。ではその1段階上の分子はどうだろう?生体には巨大分子があって、いくつかのものは自分で動くことができる。実際アクチンという筋肉の分子のひもが、ガラス面にまいたミオシンという別の筋肉の分子をうねうねと動き回るのは、まるっきりみみずが這いまわってる姿と同じように見える。これはどうやって動いているんだろうか?このいわゆる「分子機械」の研究は私を魅了した。そして慶應の大学院ではATP合成酵素という1個の分子が回転モーターであることを証明したのだ。この一連の仕事は世界的に有名になったし、私達がこれを発見した年、この回転説の提唱者たちは、ノーベル賞をもらった。ということで、私がこの仕事を自慢するときは、「ノーベル賞級の仕事だったんだぞ」ということにしている。彼らのノーベル賞に大きく寄与したことには間違いないし、まあうそではない。

2光子顕微鏡の前で

大学院を終わった段階で、私は、分野をさらに変えて、脳の神経細胞の中での分子の挙動を調べることにした。分子1つ1つは、おどろくほど複雑なことができるが、それは結局1つの部品だ。部品がどう組み合わさって生命としての活動を作っているのかを見てみたい。特に神経は私達の「こころ」を担っているのだから、その「こころ」と「分子」を結ぶことができれば、素晴らしいなあ、とぼんやりと思ったわけだ。分野を変えるのは多少のリスクが伴う。というのは、まずその分野でのクレジットを1から作り直す必要があるし、その分野での自分の知識は限定されている。しかし、逆にその分野に新しい見方を吹き込むという可能性もある。ということで、私と似たように、物理学科→分子モーター→神経科学、という経歴をもつコールドスプリングハーバー研究所のカレル・スボボダの研究室でシナプスの分子がどのように相互作用しているのかを調べることになった。

お子さんと一緒に(ロングアイランドの春です)

コールドスプリングハーバーでカルシウムチャンネルの研究を一区切りがついたころ、私は、アメリカでアシスタントプロフェッサー(助教授)の職を探す決心をした。アメリカの研究機関では、ポスドクからアシスタントプロフェッサーになると、すぐに自分の独立の研究室を持ち、独立の研究をすることができる。また、アメリカに来てすぐに分野を変えた私としてはアメリカのほうが職を得やすいという計算もあった。結果的にこの就職活動はうまくいき(この経緯の詳細は私のホームページをご覧ください)、今年7月から、デューク大学医療センターで研究室を率いることになる。神経シナプスの分子の挙動を定量的に解き明かすことが1つの目標である。

プロフィール

安田 涼平(やすだ りょうへい)
(慶應義塾高等学校 出身)

1994年3月
慶應義塾大学理工学部物理学科 卒業

1998年9月
慶應義塾大学大学院理工学研究科物理学専攻修了

1999年2月
科学技術事業団 研究員

2000年2月
Young Fluorescence Investigators Award 受賞
(Biological Fluorescence Subgroup of the Biophysical Society, USA) 

2000年10月
コールドスプリングハーバー研究所 研究員 

2003年1月
Career Award at the Scientific Interface 受賞
(Burroughs Wellcome Fund, USA)

2004年6月
理工学部同窓会により表彰 受賞

2005年7月
デューク大学医療センター 助教授

現在に至る

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