人生で最も輝いている時を慶應義塾大学理工学部で過ごせたことを私は幸せに感じ、誇りに思っております。私は大学と修士課程の6年間を慶應義塾で過ごさせて頂きました。先生、先輩、仲間に恵まれて本当に良い学生時代を送ることができました。

私が理工学部を志望した動機は、単純で「研究」という言葉が高校生の私にはかっこよかったからです。学生時代には理工学部は文系の学部に比べて、実験や必修授業も多くあり厳しいと感じたことがありましたが、今にして思えばこれが理工学部の利点であると思えます。

我々の学生時代は大学合格が大きな目標であり、入学後は勉強以外で大学生活を謳歌する傾向にありました。しかし、理工学部では実験・授業に加えて4年生から卒業研究では、研究や問題点への取り組み方を先生について勉強することができました。久野先生、仙名先生には本当にお世話になりました。久野先生の定年退職の年と私の修士修了の年(97年3月)が同じでしたので、我々の世代が久野先生から最後に教えを受けた世代となりました。仙名先生には、考えの甘い私を叱咤激励して頂き、物事への取り組み方を教えて頂きました。現在まで私がなんとかやってこられたのも仙名先生のおかげだと感謝しております。

久野先生を囲んで研究室の仲間です

人に個性があるように学校にも個性があると思います。授業だけでは学べない事が慶應義塾にはありました。その一つが野球・ラグビー等慶応体育会の応援です。私は6年間春・秋の野球の早慶戦は欠かさず応援に行きました。春は新入生と秋は卒業する先輩と共に母校を応援したことは良い思い出です。神宮で、秩父宮で、国立競技場で、仲間と歌った「若き血」は今も忘れられません。全国各地から集まった多種多様な学生が卒業する頃には、塾員(慶應義塾卒業生)としての絆が深くなるのは、このような課外活動が一つの要因だと思います。学生時代に得た友人は今でも貴重です。我々の頃は語学の選択で1,2年のクラス分けが行われておりましたので、1,2年のクラスメートとは学科に分かれる矢上台に移ると授業や研究室では会うことが少なくなりましたが、最も多感で貴重な時期を一緒に学んだ(遊んだ?)仲間達とは20年経った今も時々会っています。

英国のSalford大学Ph.D.学位授与式にて(Carter先生と一緒に)

私は卒業後、建設機械メーカのコマツに入社し、海外留学の機会を得ることができ、英国マンチェスターで2年弱過ごしました。社内の留学制度に応募したのは慶應義塾での学生生活を思いだし、もう一度勉強したいと思ったからです。30歳からの英会話は実験以上に苦労しましたが多くの良い経験ができました。家内を帯同したことで、各国の留学生とお互いの国、文化について家族ぐるみで話す機会を得たことはまさに留学生の特権でした。音楽、絵画が苦手だった私にとって国の文化と科学技術に対して考える良い機会でした。 帰国後も英国留学先のPh.D.コースに在籍して、Ph.D.を取ることができたのは指導教官のCarter教授、家族、同僚等周りの援助や励ましがあったからです。研究は一歩一歩の積み重ねが大切で諦めずにがんばることも学びました。学位取得後、仙名先生、磯部先生にご報告に伺うと磯部先生より学会誌に私の研究紹介を行う機会を頂きました。慶應義塾の先生方はいつでも塾員を暖かく迎えて下さいます。私は90年代後半にコマツが新規事業として参入した半導体用多結晶シリコンのオペレーションで4年間米国ワシントン州に駐在した後、現在はコマツ研究本部で建設機械関連の研究に従事しております。米国では、一度社会人になり学費を貯めて再び大学院に行く人を多く見かけました。日本ではこのようなケースはまだ希なようですが、制度が変わってくれば更に多くの優秀な人材が輩出されるのではないかと思います。今後の慶應義塾にも期待しております。

米国ワシントン州に駐在中のある日(オリンピック国立公園にて)

大学を卒業してほぼ20年経ちますが、慶應義塾で学んだ日々がつい昨日のように思い出されます。まだまだ私の中には若き血が流れております。

プロフィール

井上真一郎(いのうえ しんいちろう)
(広島県立呉三津田高校 出身)

1985年3月
慶應義塾大学理工学部応用化学科 卒業

1987年3月
慶應義塾大学大学院理工学研究科修士課程 修了

1987年4月
株式会社小松製作所(コマツ)入社 研究本部配属

1992年10月~1994年4月
英国Salford大学留学

1994年5月
コマツ生産技術研究所

1995年7月
コマツ経営企画室

1996年7月
英国Salford大学よりPh.D.取得

1997年1月
米国Advanced Silicon Materials Inc.出向

2000年5月
コマツ研究本部 主任研究員

現在に至る

ナビゲーションの始まり