研究室のコンパです(もちろん成人です)。

「塾員来往」の執筆依頼を受けて、ひとつの言葉を再び思い出しました。「君たちはお金を払う人生をこれまで過ごしてきたから楽しい事が一杯ありました。でも、これからはお金を稼ぐ立場になるから壁にあたり苦しむことが相当あります。しかし、それを乗り越えるたびに経験したことのない新しい喜びがあります」。これは卒業研究と修士論文の研究でお世話になった計測工学科(当時)の坂田 亮先生のお言葉で、これまでにも折々に思い出していました。この言葉は妙に的を射ており、慶應義塾大学に在籍した6年間は本当に楽しく有意義に過ごせたし、社会人になってからは仕事を通じてさまざまな経験してきました。 社会に出ると誰もが実感するのではないでしょうか。

北大で開催された日本物理学会にて。後列右端は太田先生、後列右から2人目は先輩の武田さん(現・早稲田大学理工学部教授)です。

私は高校まで広島県の呉市で過ごしましたが、東京の大学に行きたいという強い希望がありました。 多くの人が集まり、多くのエネルギーを生産して消費する東京、その東京にある大学では情報が溢れ創造的研究活動に触れることができるのではないかと思ったからです。実際、その願いをかなえてくれたのが慶應義塾大学でした。

当時慶應義塾大学では、1、2年生の教養期間は全学部の塾生が日吉キャンパスで学ぶため、講義やサークル活動を通じて多くの仲間と知り合えるチャンスがありとても新鮮でした。3年生からは工学部(当時)の専門課程が始まり、矢上キャンパスで白衣を着た先生方や上級生とともに実験やレポート作成を行いました。それまでとは違ったアカデミックな雰囲気の中で、工学部にいる自分を実感した次第です。

半導体産業の発展がめざましい時代でしたので、卒業研究は物性工学の坂田先生と太田先生の研究室にお世話になりました。ここでは自分の研究に必要な情報を論文、輪講や学会参加などから苦労して集めたり、失敗を繰り返しながら実験装置を製作したりする日々でしたが、まわりから多くのアドバイスや刺激を受けることができました。自分が描いていた以上に充実した研究生活を過ごせ、卒業時は大きな達成感があったことを覚えています。特に修士課程では東京大学物性研究所との共同研究にも参加することになり、先端技術の研究に触れたことは貴重な体験となりました。大学の枠にとらわれることなく自由に研究の場を与えてくれる慶應の塾風の中で、のびのびと好きなように研究活動を過ごせたことは学生生活の締めくくりとして大いに満足いくものとなりました。

1984年、私は卒業とともに広島の自動車メーカーであるマツダ(Mazda)株式会社に入社しました。世界中どこでも簡単に目にする車を製造することは、良くも悪くも自分の仕事の成果を直接感じ取ることができ、グローバル産業で刺激的な上にやりがいがあると思ったからです。マツダは世界の自動車会社として中位に位置し、Fordグループの中で開発の要の役割を担いながら、ATENZAやRX-8に代表されるように区別化された魅力あるマツダブランドの商品導入を続けています。

これまで20年間にわたり新型車の商品開発を担当してきましたが、現在は開発プロジェクトリーダーとして仕事に取り組んでいます。数百億円の投資をかけ、年間数十万台の車の販売を実現するために、将来動向を予測しながら、国内・アメリカ・中国などの生産工場や世界各国からの最適な部品調達を考え、マツダ社内はもとよりFordやVolvoの人達と一緒になって高い商品競合力を持った車を生み出す仕事です。自動車産業やマツダ、そして自分に与えられた使命と厳しい制約条件の中で、他社を凌駕する車を造る夢を実現するために、毎日多くの人を相手に泥臭く立ち回っています。

思い返せば卒業してから20年があっという間に過ぎました。20年前には想像もつかない世の中の変わりようです。今後もこれまで以上に大きく変わることが考えられ、更なる試練が待ち受けていると思います。塾生や慶應義塾を目指す学生諸君に負けないよう、アテネオリンピックアーチェリーのメダリスト山本博さんのように熟年パワーを燃やし続けたいと思っております。坂田先生の言葉を思い出して。

塾員来往特別出演です。

プロフィール

前田 剛享(まえだ よしゆき)
(広島県立呉三津田高校 出身)

1982年3月
慶應義塾大学工学部計測工学科 卒業

1984年3月
慶應義塾大学院工学研究科修士課程 修了

1984年4月
株式会社マツダ 入社 (広島県安芸郡)
~ 1994年 ファミリア、カペラの車内騒音開発担当
~ 2004年 デミオ、ファミリアの開発推進担当

現在
株式会社マツダ プログラム開発推進本部 主査

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