学生時代優秀な生徒だったとは言えないから読者諸氏の参考になるような「塾員来往」を書ける自信ないのだが、どんな内容でも構わないという事なので引き受けました。
これまで折に触れ意識して異端を通してきた。もちろん今も異端のままだ。「好きなことやれていいですね」と仕事場に来た人によく言われる。別に好きで始めた訳じゃないが「えぇ・・・まぁ・・・」と言葉濁すしかない。自覚しながら自らを異端の場に置くのは辛いしんどい。半眼視されていることを覚悟しながらそれに耐えねばならない。しかし長く続けるとついにはこんな一文をも書かせてもらえる。そう考えると異端も悪くない。
ある時生き方変えようと考えたことがあり、将来に渡る諸案件を一番クリアしそうな仕事が、焼物だっただけだ。まぁ死ぬまでには何とかなるさ、自分を信じて続ければなんとかなるさ、そんな思いで選んだ仕事だ。あとは自身を信じる強さに自らを委ねるだけだ。ただその強さだけは人一倍の自信があった。4歳の時、弟1歳の医療事故が引き起こした家族のパニックがある。それが僕の最初の記憶だ。僕の行動基準は全てがそこに帰着する。その強烈な記憶ゆえに、僕の思考ベースは単純だ。単純であるがゆえに迷いが無い。苦しいこともあったが時間が経って今考えると、ここから学んだことは多く、異端を続けられるエネルギーや、自分の判断に自信を持つことのパワーをここからもらっている。焼物の世界でも異端を通したままだ。
焼物師としては管理工学出身という場違いな場所から入った。家系が焼物関係とか、焼物が好きでこの仕事に入るたたき上げの職人的技能者とか、美術系高校大学出身者・・・等々とは異なる視点を持って焼物世界を見ることができるということはきっと良いことに違いない。焼物に対する先入観や予備知識がないだけに、釉薬・技法・ロクロ技術・・・あらゆることチャレンジした。研修生となった鹿児島県工業試験場の先生の指導もあるが、元来の気性もあってほとんど独学的なアプローチを試みた。焼物人生の半分以上を費やしてきた釉薬の試験には、まさしく塾生時代の実験とレポート提出によって学んだ科学する姿勢が生きている。多くの失敗や無駄を通して、生涯の研究テーマになる今までにない釉薬の発見や、焼物を作ることができた。暗中模索の長い時間があったがそれが良かったのだろう。鹿児島で25年、やっと今年5月小田急デパート個展までこぎつけた。
最近よく思うことだが、人には能力なんていくらでもある、しかしそれはほとんど隠れたまま引き出せないまま見つからないままだ。僕の場合4歳の時の弟の出来事がなければ焼物をしようなんて考えもしなかっただろう。焼物の世界なんてほとんど知らなかったのだから。それでも続ければ何とかなるものだ。腐らずあきらめず頑張っていれば1/100万の夢と思っていたものが、1/1万、1/1000・・・となって実現もする。
他にも夢がある。仕事の夢、仕事でない夢、色々夢をみる。途方もなく大きな夢もある。これからいくつの夢を手繰り寄せられるか。夢ではなかったが、卒業した高校の陶壁を造る仕事も舞い込んできた。創立50周年の事業。それも卒業生1万人の中にプロの焼物師がただ一人という希少性から立った白羽の矢だ。これが50歳の時。やはり異端は悪くない。
優秀な学生の多い管理工学の中に紛れ込んだこんな生徒を研究室に快く引き受けてくださった中村先生には、在学中もそして卒業後もお世話になるばかりです。個展での推薦文ありがとうございました。(ここで新たな夢を書いておこう、残る母校にも陶壁を造りたい。安西先生、覚えておられるでしょうか。アドバイザー制度で担当していただいたのですが、将来こんなこともあると分かっていたら、異端児の片鱗を先生の前でも発揮し、存在をアピールしておくべきだった、痛恨の失敗だったと後悔しています。) もう一つ大事なことは人との出会いだ。焼物でもある人と出会った。偶々出会う人になんと大きく人生が動くことか。人との出会いは大切にしたい。 異端ノススメみたいになったが、かくの如く自慢できる学生時代を送ったわけではないそんな卒業生にも、このように卒業生代表紹介のような貴重なHPの1ページを提供してくれる塾に感謝。
下高原 正人(しもたかはら まさと)
(私立鹿児島ラ・サール学園 出身)
1977年
慶應義塾大学工学部管理工学科 卒業
1977年
株式会社ランチェスター・システムズ 入社
1979年
鹿児島工業試験場窯業研修生となる
1981年
鹿児島県内窯元で修行
1983年
現在地鹿児島指宿市に築窯、以来釉薬・技法を研究
1999年
初個展(鹿児島三越)
2001年
ラ・サール学園陶壁製作
2004年
東京初個展(小田急百貨店新宿本店)
現在
谺黙窯