慶應義塾大学に在籍したのは、1979年4月の学部入学から1988年3月の大学院後期博士課程終了までの9年間である。工学部が理工学部に変わり、学科も数理工学科から数理科学科に変わった時期である。個人的には学位が学士号と修士号は「工学」で博士号は「理学」となった。そのため、学部・学科名とも現在のものとは異なる事をご承知おき願いたい。

大学院修了後は数学を専門とする研究職について現在に至っているが、学部生の頃はそもそも研究者という職業は将来の選択肢にはなかった。学部2年生の終わりに学科分けがあった。将来の事は漠然としていたが、数理工学科と電気工学科まではすぐに絞り込めた。数理工学科というのは英語ではDemartment of Mathematicsというのは知っていた、要するに「数学科」だ。数学は好きであったが、学部1, 2年次の「数学」の授業はあまり印象に残るものは無かった。工学部向けのおおらかな数学だったからだ。一方で面白いと感じたのは「物理第2」と「電気回路」であった。物理第2の内容は電磁気学である。「電子工学科」を選択肢に入れた理由である。しかし、よくよく考えてみると、電気や電子による現象そのものへの興味というより、電磁気学で扱うベクトル解析や電気回路で扱う常微分方程式が面白かったのである。そこで、「数理工学科」に進級することにした。数理工学科での「数学」の授業はそれまでとは一変した。魚返先生の解析概論でのデテキントの切断による実数論が強烈に印象に残っている。「デテキントの切断」は私は勤務校で解析学を担当する際にも採用している。

学部4年生の頃、小林 治 先生が着任された。幾何学の助手の先生である。当時、私は幾何学が苦手であった。3年生のときの幾何学の授業ではクリンゲンバーグの「微分幾何学」とシンガー・ソープの「トポロジーと幾何学入門」が参考書として指定されていた。これがさっぱりわからない。小林先生に「何か、幾何学のいい本はありませんか。」と尋ねたところ、「シンガー・ソープ」と言われ絶望した記憶がある。そのころから「小林先生、昔、どこかでお見掛けしたような…。」と思っていた。大学院生の頃、小林先生と日吉のグラウンドで飲む機会があり、「長澤君、君は上野高校出身なんだって?僕もなんだよ。」と言われた。「ああ、そうだ、高校2年生のときの教育実習で来られた先生だ!」と疑問が解消した。

本文に出てくる小林先生たちと1985年4月14日に丹沢山系にハイキングに行った際のもの

左から、小林先生・林先生・金井さん(当時大学院生)・石井先生

1984年頃 谷研究室メンバーで信州旅行した際のもの

大学院修了後は、幸いにも研究職に就く事ができた。最近は勤務校の執行部に取り込まれてしまった。オープンキャンパスや高等学校の体験授業などにも駆り出される。そんななかで、「理学部と工学部の違い」「理学部と工学部のどちらに進学すべきか」という質問を受ける。私の体験からすると両者の差はあまりない。実際、勤務校の理学部長を務めていたとき、「理学部長は工学部出身、工学部長は理学部出身」という捻じれ現象が起こっていた。ひとつの自然現象にどうアプローチするのが好みかで考えたらどうだろうとアドバイスする事にしている。例えとして、「飛行機(と呼ばれるもの)はなぜ飛ぶのか」と考えるのと「どうやったら空を飛ぶものが作れるか。」と考えるのとどちらが自分の好みか。「飛行の原理の探求」という点では両者は等しいが、アプローチが異なる。前者なら理学部へ、後者なら工学部への進学を薦めている。自分はと言えば、やはり前者かなあ。

プロフィール

長澤 壯之(ながさわ たけゆき)
(東京都立上野高等学校 出身)

1983年 3月
慶應義塾大学 工学部 数理工学科 卒業

1985年 3月
慶應義塾大学 大学院工学研究科 数理工学専攻 前期博士課程 修了

1988年 3月
慶應義塾大学 大学院理工学研究科 数理科学専攻 後期博士課程 修了

1988年 4月
東北大学理学部 助手

1989年10月
東北大学教養部 講師

1992年 4月
東北大学教養部 助教授

1993年 4月
東北大学理学部 助教授

1998年 4月
東北大学大学院理学研究科 助教授

2003年10月
埼玉大学理学部 教授

2006年 4月
埼玉大学大学院理工学研究科 教授

2014--15, 18年度
埼玉大学理学部副学部長

2019年度
埼玉大学理学部長

2020--21年度
埼玉大学評議員

2022--23年度
埼玉大学理学部長

2024--25年度
埼玉大学副学長(目標計画・評価担当)

2026年 3月
定年退職(予定)

ナビゲーションの始まり