いまからちょうど100年前、分子や原子などのミクロな世界の物理法則を明らかにする基礎理論---「量子力学」---がハイゼンベルクらによって構築されました。量子力学に現れる新しい概念は日常のマクロな世界の常識と鋭く対立するように見え、その考え方を受け入れることは容易ではありませんが、この100年の間に量子力学の正しさは数多の実験によって確証され、私たちの自然界の理解を飛躍的に前進させてきました。

 今世紀に入り、私たちはミクロな世界を受動的に「記述する」、あるいは「理解する」ことにとどまらず、むしろ、ミクロな世界を能動的に「操作・制御」しようとする段階にきています。実際、実験技術の進歩によって、1分子・1原子レベルでの精密な測定・操作が可能となってきました。さらに、量子力学に従うミクロな構成要素がたくさん集まってできる「量子多体系」を、その量子性を損なうことなく制御することは、量子コンピュータ実現に向けた大きな問題でもあります。通常、量子多体系はそのまま何もせずに放置すると熱平衡状態に緩和してしまいます(このこと自体も物理学のまったく非自明な基礎的問題で、現在でも活発に研究が進められています!)。熱平衡状態では量子性が大きく失われてしまうため、私たちは対象とする量子系に操作を加え、非平衡状態に駆動し続けなければなりません。

 量子コンピュータのようなチャレンジングな実際的問題を理論的に研究することは、物理学という学問自体にとっても、きわめて意義深いことです。例えば、今後の量子科学技術の発展にとって、量子系にある操作を加えたときに、原理的に何ができて何ができないかを知ることはきわめて有用でしょう。マクロな世界では、熱機関の効率はある普遍的な上限(カルノー効率)を超えられないということが熱力学の理論から予言されます。熱力学はまさに「何ができて何ができないのか」を教えてくれる理論体系です。このような熱力学の枠組みが量子の世界にどのように拡張され得るか、という問題は理論物理学の中でもきわめて重要な基礎的問題の一つです。また、量子多体系を制御するために本質的な「非平衡状態」を包括的に記述する理論的な枠組みも今のところ知られていません。物理学の基礎的問題の立場から見ても、量子多体系の操作・制御には多くの魅力的な問題が残されているのです。

 最先端の技術的問題を理論的に研究していくことで非平衡量子多体系についての普遍的法則がわずかばかりでも解明され、私たちの物理学の理解がさらに深まることを強く期待しています。

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