研究の魅力とは何でしょうか? 100人の研究者に聞いたら、100通りの回答があると思います。私にとっての研究の魅力とは、「研究を通じて社会に貢献できること」です。当研究室では「大気などの環境媒体と人間の健康を結ぶ事象について、何らかの新たな知見を得て、世界の人々の、より健康的な生活に貢献する」ことを使命として日々研究に取り組んでいます。
当研究室は応用化学科に所属しており、研究室名は「環境化学研究室」です。本稿執筆時点の本学応用化学科のウェブサイトによれば、応用化学は、分子のデザイン・合成・解析という化学の<基礎>を基盤とし、環境や生命に調和した新物質の創造や実用技術への<応用>を見いだす学問です。多くの環境汚染物質は「化学物質」ですので、環境を扱う研究室が応用化学科にあることは合理的だと思います。
その一方で、環境問題は化学だけでは解決できません。原因となる化学物質の毒性発現メカニズムを解明する医学、汚染物質の低減技術を開発する環境工学、環境媒体中に放出された物質の挙動を解析する流体力学や地球物理学、さらには対策コストを計算する経済学や、法規制のための法学および政治学、環境基準設定のための社会学や倫理学、膨大な環境計測データを扱う統計学や情報科学など、およそ考えつく全ての「〇〇学」の力が必要です。これに加えて多くの関係者と共に行動するための語学やコミュニケーション能力、情報伝達やデータ保存のための情報通信インフラストラクチャーも必要となるでしょう。
環境問題のように対象が大きくなるほど、その解決には各分野の最先端の知見を集約する必要があるため、参画する個人の専門性が重要になります。そこで、<基礎>を基盤として<応用>を見いだす、という考え方が正に必要なのです。つまり、それぞれの分野において自分の強みを見いだして磨いていくことで、それが人から求められ、連携や協業が生まれるのです。以降では、当研究室が進めている様々な取り組みを紹介しながら、専門性を磨くことで社会に貢献できる可能性を具体的にお示ししたいと思います。
■新規フィルター技術で医療現場に貢献
当研究室では大気中の粒子状物質の毒性評価を行っているのですが、従来のフィルターは水に溶けないため、フィルターに捕集された粒子を取り出して細胞や動物に曝露する実験はできませんでした。そこで水に溶けるフィルターを開発すれば意図する実験ができると考え、実際に自分で作って学会で発表したところ、結核を専門に研究している医師で研究者の方に「こんなフィルターが欲しかった」と興味を持ってもらいました。結核患者さんが退院する前には呼気に結核菌が含まれていないかどうかを喀痰(かくたん)を採取して検査をしているのですが、この方法は患者さんの身体に大きな負担がかかります。そこで我々が開発した水溶性フィルターをマスクに取り付ける検査方法に変えることで、患者さんの負担を大きく減らすことができるのです。結核に限らず、呼吸器系の感染症全てに応用できる技術になると考えています。
■コロナ禍で科学的見地から社会へ発信
2020年代前半は新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため私たちの生活は大きな変化を強いられ、特に多くの人々が集まるイベントでは人数制限などの様々な感染対策が実施されました。このような大規模集会におけるリスク制御とコミュニケーションを目的として、医学、工学、バイオインフォマティクスなど多様な専門分野の研究者が集まり、実践的な課題解決の活動をしました。当研究室は環境化学・環境計測の観点からこの活動に参加し、例えばCO2濃度を指標とした空間の換気状態の管理手法を提案したほか、粒子可視化装置を用いて会話による飛沫を「見える化」したり、マスクの着脱状態を変えて発声実験を行い、マスクを着けることで飛沫の飛散を抑えられることなどを示しました。これらの有志チームによる活動に対して、令和5年度 科学技術分野の文部科学大臣表彰 科学技術賞(科学技術振興部門)を授与されました。
■大気浮遊粒子の採取技術が新型コロナウイルスの感染メカニズムの一端を解明
世界各地で、PM2.5に代表される大気汚染が新型コロナウイルス感染症の感染者数や重症者数を増やすことが報告されていますが、その理由は明らかにされていませんでした。新型コロナウイルスが体内に侵入する際には、感染する対象(ヒトや動物:宿主)の細胞にあるACE2とTMPRSS2という2つの分子が重要です。私たちは、独自に開発したサイクロン法で大気中から採取した粒子を曝露させたマウスの肺の細胞でACE2とTMPRSS2が増加すること、つまり、粒子の吸入により新型コロナウイルスが肺から人体へ侵入することを促進する可能性を示しました。
■環境×IT×農業でフードロス削減を目指す
秋頃に収穫したサツマイモは長期間倉庫内に貯蔵されますが、場合によっては数割程度が傷んでしまいます。私は、倉庫内に低濃度の静菌剤を行き渡らせることで腐敗を防げると考えました。しかし倉庫の隅々まで静菌剤濃度を制御し長時間維持するためには、静菌剤の発生方法や測定方法が重要になります。そこでドローンを用いて静菌剤の空間濃度を測定したり、2トントラックのコンテナを設置して静菌剤の発生方法を工夫したり、研究員や学生にも協力をしてもらいながら空間静菌の手法を確立しました。そして実際の農家さんの倉庫を借りて実証実験をしたところ、予想以上に大きな静菌効果が得られました。現在は、静菌剤の発生方法と測定方法を含めて技術をパッケージ化し、一般の農家さんでもフードロス対策を実践できるように、社会実装の最終段階に取り組んでいます。
■地下鉄構内の粒子状物質の特徴を調査
地下鉄構内は、基本的に閉鎖的な空間ですが、電車の運行によりレールと車輪やブレーキ等の摩擦によって生じた鉄を主成分とする粉塵が飛散し浮遊します。ある駅構内ではPM2.5濃度が地上の数倍に、また粒子中の鉄の濃度は地上の数百倍以上に及ぶことが分かり、発表当時はメディアが一斉に報じるなど社会にインパクトを与えました(写真1)。しかし現在に至るまで、地下鉄構内のPM2.5対策は進んでいません。その理由は、科学ではなく法規制の問題だと考えています。例えば環境省は一般環境大気中のPM2.5濃度について環境基準を定めていますが、現状の解釈では「地下鉄構内」は適用外となっています。鉄道の運行を管理する国土交通省、労働環境を管理する厚生労働省にも問い合わせたのですが、いずれも管轄外とのことで、責任を持って対応に当たるべき主体がどこにもないのです。今後は問題解決に向けた法整備を含む省庁横断的な産官学連携を早急に進めていくことが望ましく、私も自身の専門性を活かしてできる限り問題解決に貢献したいと考えています。
■環境研究の世界展開
近い将来、人間の早期死亡をもたらす最大の環境要因は大気汚染となり、特に粒子状物質が最も深刻となると予測されています。世界人口の約6割を占めるアジア地域をはじめとする多くの国々では、環境への配慮を欠いた急速な開発など原因により、大気汚染の問題がますます顕著になってきています。日本では過去半世紀以上に亘る公害の時代を克服して現在の比較的清浄な大気環境を享受できるに至っていますが、その経験をふまえて我々がこれらの地域における大気汚染の克服に対して何らかの積極的な行動を起こすことは極めて重要です。こうした経緯のもと、当研究室では2019年にGRiP-ACE (Global Research Institute of Pollution-control, Atmospheric Chemistry and Environmental Science) プロジェクト構想を立ち上げました。当研究室で培った環境化学の知見を活かし、世界の環境改善に貢献することを目標として、今後さらに研究を展開してゆく予定です(写真2)。
環境問題という大きなテーマは、決して一つの学問領域や、ましてや単一の研究室だけで解決できるものではありません(図1)。皆さんも自分の専門性を磨いて、自分一人では乗り越えられないような大きな課題の解決に、一緒に挑戦してみませんか?
写真1 地下鉄構内環境調査時の取材の様子
写真2 海外の現地にて製作した大気観測装置を設置する様子(ウズベキスタン)
図1 環境問題の解決に必要な学問領域の例