リハビリを科学に、BMIを患者さんに

ブレイン・マシン・インタフェース(BMI)のリハビリへの応用を研究する牛場潤一さん。
熱くなれる対象としてコンピュータを見つけ、小学生の頃から打ち込んだ。
もうひとつ、中学時代にひかれたのが脳だった。
どちらも研究者としての牛場さんの縦糸となり、いまBMI研究に結ばれて、
患者さんに使ってもらえる日をめざす。

Profile

牛場 潤一 / Junichi Ushiba

生命情報学科

ヒトの随意運動や反射に関する運動制御機構に関する研究に従事。最近は、これまでの科学的知見を応用したブレイン・マシン・インタフェースの開発に取り組む。2003 年、デンマーク,オルボー大学感覚運動統合センター客員研究員。2004 年、博士(工学)を取得。慶應義塾大学 助手。2007 年より慶應義塾大学理工学部 専任講師、現在に至る。

研究紹介

「新版 窮理図解」では、毎回ひとりの若手研究者を取り上げて紹介します。

今回登場するのは、リハビリで大きな成果が期待される BMI 研究の若き牽引者、牛場潤一専任講師です。

BMIでリハビリ革命を起こす

「思い」を「行い」につなぐ

1人の男が、凍てつく雪道を黙々と歩いている。歩きづらいのだろうが、それにしても動きがぎこちない。真っ直ぐに進んだかと思えば、急に右に左に大きく曲がったり、時には後ろ向きになったりもする…。どうやら目的地は近いらしい。最後の気力を振り絞り、男は懸命に歩く。そしてついに雪山のなかにある小さな山小屋にたどり着いた。安堵のため息…。
突然、数人の若者たちが小屋から走り出てきた。そして、男を取り囲み、口々に「おめでとう!」と声をかける。男は皆の手を握りしめ「ありがとう」と力強く応える。

念じてモノを動かす BMI

駆け寄ってきた若者たちは、慶應義塾大学理工学部生命情報学科富田・牛場研究室の大学院生と学部生。山小屋にたどり着いた男は 41 歳の元システムエンジニアの K さん。じつはKさんは筋ジストロフィーを患っている。この 30 年来、手を動かしたり、足を動かしたりすることがほとんどできない。雪道を歩く男は、セカンドライフの世界での K さんのアバター(分身)。それを学生たちのアバターが取り囲んだのだ。
学生たちは、キーボードで自分のアバターを操作しているが、K さんは頭の中の “思い” で動かしている。この「念じて動かす」魔法の杖は、BMI(BrainMachine Interface)。 脳科学と医学の知見、そして情報工学の技術を融合させた新しいシステムだ。その研究開発を率いているのは、牛場潤一専任講師。184cm、弱冠 31 歳の気鋭の研究者だ。
さて、K さんの頭には複数の電極が取り付けられている。「真っ直ぐ進む、右に曲がる」などのイメージを頭に描く(脳を活動させる)と、その脳波のパターンが電極によって信号として取り出される。これをコンピュータに入力し、バーチャル(仮想)世界のアバターを動かす。BMI を使えば、リアル(現実)世界の機器やシステムも念じて動かせる。
しかし、体が不自由で、長い間、動かさずにいると、運動イメージに沿った脳活動が起きにくく、運動に対応するきちんとした脳波が出ない。 脳の活動にも“リハビリ” が必要なのだ。 K さんは何度もセカンドライフに挑戦し、ついにアバターを目的地まで送り込めた。それで、富田・牛場研究室の若い仲間が祝福に駆けつけたのだ。

BMI は、脳の運動指令を脳波から読み取り、コンピュータによって分析することで、車椅子や家電、義手、アバターなどを直接動かす。脊髄損傷や四肢切断などの患者さんの生活の質を高める技術として期待されている。

脳とコンピュータの研究を結ぶ

BMI プロジェクトを率いる牛場さんは、小学生でコンピュータに夢中になり、中学生で脳の不思議さに魅せられたという(4〜5ページの牛場さんのインタビューをどうぞ!)。学部の卒業研究で富田豊教授の研究室に入った時から現在まで、横浜市・日吉の理工学部で情報工学や電気工学の研究を行い、新宿区 ・信濃町の医学部や伊豆市・月が瀬リハビリテーションセンターで神経生理の研究を進めてきた。「脳の研究も、コンピュータの研究も、私にとっては自然な流れ。これを融合させるところに、私の立ち位置があるとずっと思っていました」。
そんな牛場さんが、まさに脳とコンピュータをダイレクトにつなぐ BMI の研究に取り組んだのは 2006 年。まず、健常な人が運動したり、運動のイメージを描いたりする時に、大脳の「体性感覚運動野」(感覚や運動を司る領域)からどのような脳波が出てくるかを確かめた。体性感覚運動野には手、足、肩、胴などそれぞれの運動や感覚をコントロールする決まった場所がある。「確かに、足を実際に動かしている時と、同じような動きをイメージしている時には、運動野の同じ場所から、似たような脳波が出てきます」。
こうして運動の種類と脳波のパターンの相関データを蓄積し、これをリアルタイムで処理する方法も開発した。次いで、BMI を脊髄損傷や ALS(筋萎縮性側索硬化症)などを患い、体を動かせない人たちのコミュニケーション・ツールにしようと、冒頭で紹介した脳波でアバターを動かす課題に取り組み、わずか半年で成果を出すことができた。「10 年近く、医学部の先生たちと神経生理学の実験を行い、健常な人と体の不自由な人との運動の感覚の違いを詰めてきました。これがスムーズに進んだ要でしょう」。

脊髄損傷などの患者さんは、脳の運動指令(思い)を筋肉(行い)に伝える経路が切れている。BMI が代替経路(バイパス)となって、思いと行いをつなぐ。
脳卒中の患者さんは、脳の運動指令が筋肉に正しく伝わらず、筋肉が動かない。そのため、「筋肉から脳への感覚フィードバック」も生じない(a)。
BMI を使えば、運動指令に対応して手が動くので、フィードバックが生じる。脳から筋肉へ、筋肉から脳への経路の維持が、リハビリをうながすと考えられる(b)。

BMI をリハビリの道具にする

牛場さんの頭の中には、神経科学、脳科学、情報科学、情報工学など多分野にわたる視点 ・ 知識・方法論・技術が、分野の壁にとらわれることなく蓄えられている。さらには医療現場の生の感覚も組み込まれている。そして、これらを融通無碍に組み合わせ、深化させて、BMIの新しい地平を切り拓いてきた。その1つが、「手足などの体の機能を回復させる」、つまり「リハビリの道具」としての BMI という新しいコンセプトだ。
従来、医療分野の BMI は、体が不自由な人たちに対して、“手足などの体の機能を代替する” という視点で開発されてきた。しかし、体が不自由になる一番の原因は脳卒中だ。右麻痺、左麻痺など体の半分は不自由だが、もう半分は動かせるので、機能代替はあまり必要ない。また、脊髄損傷や ALS などと違い、適切なリハビリによって、機能をある程度は回復できる。「そこが重要な点で、BMI がリハビリの役に立つと、ある時、直観しました」。

脳活動と行動の連係をはかる

早速、BMI のシステムを組み、医学部との共同実験を開始した。この BMIリハビリシステムでは、麻痺した手をモーターの入った箱の上に固定する。患者さんが指を伸ばそうと念じると、その脳波の信号が BMI を通してモーターに伝わり、モーターが動いて指が伸ばされる。ただし、脳波のパターンが指を伸ばすものと一致しないと、つまり正しい脳活動が生じないと、モーターのスイッチは入らない。
何年も麻痺したままだと、最初はうまくいかない。麻痺した手のイメージを頭の中で描きにくい。頑張って念じようとすると、麻痺していない方に変な力が入って、脳波のパターンが変わってしまう。「試行錯誤しているうちに、リラックスしながらきちんと念じられるようになります…。学習ですね」。こうして脳がリハビリされると、筋肉にも変化が生じる。BMI リハビリ以前には、まったく筋活動の電位が出ていなかった手の筋肉に、BMI リハビリで指を伸ばそうと正しく念じた時には電位が検出される。
こうした訓練の結果、指の動きがわずかだがよくなったと感じる患者さんや、麻痺した側を積極的に使おうと意識するようになった患者さんなどが出てきた。今、世界の BMI の趨勢は、リハビリに向けて動きだしているが、BMI がリハビリに効果があることを最初に証明したのが牛場さんたちだ。
今後の研究について、① BMI リハビリではどういう仕組みで回復しているのかを明らかにする、②その知見をもとに、もっと効率的な BMI リハビリシステムをつくる、③患者さんがリハビリの道具として容易に使えるように安くすることをあげている。その実現に向かって、牛場さんのドラえもんのポケットのような頭脳から、今度は何が飛び出してくるのだろうか?

(取材・構成 由利伸子)

インタビュー

牛場潤一専任講師に聞く

コンピューターへの興味と脳への興味

若手研究者として充実した毎日を送っておられますが、
そもそもどんなご家庭で育ったのですか?

私の家庭は、父がフランス文学者で大学の教員、母はフランス語会話の講師や翻訳などをやっていました。まったく文系の家庭環境です。父は書斎にいることが多く、そんな父の後ろ姿を見ていて、「大学の先生っていいなあ」と思ったのが研究を仕事にすることにあこがれをもった最初かもしれませんね(笑)。そんな家庭で、「お前は好きなことをやればいい。責任を持って究めろ」と言われて育ちました。

コンピュータに興味を持って
触れるようになったのはどんな動機でしたか。

小学5年生のときに学校でコンピュータ教室が開かれるようになりました。コンピュータが何台も設置されて、希望者に放課後プログラミングを教えてくれたんです。同級生に誘われて参加したのがコンピュータに触れた最初でした。どの家庭にもコンピュータがあるという時代ではありませんから、もっぱら学校でコンピュータを触っていたものです。
夏休みには大学の先生が理工学部でコンピュータ教室を開いていたので、それにも参加するようになりました。プログラムを書いている大学院生を見て、「すごいなあ」と大いに刺激を受けました。以来、すっかりコンピュータにはまってしまったわけです。その頃の小学生が熱中する対象としては漫画やTVアニメもありましたが、私の家庭ではそうしたものを見せてもらえなかったので、いっそうコンピュータに向かったのかもしれません。
当時、流行だったのは人工知能です。大学院生が自動会話システムのプログラムを作って小学校に持ってきたことがありました。“なぞなぞ”のようなもので、ヒントをひとつひとつ出してやると最後に正しい答えが返ってきます。間違ったときには正しい答えを教えると、ちゃんと学習して次回から正答を出すようになるシステムです。コンピュータはあらかじめ指示したとおりにしか動かないはずなのに、人工の知能が作れることを初めて知りました。びっくり仰天です。
中学のとき、OBの御子柴克彦先生(現・理化学研究所)が来られて、脳の話をはじめて聞きました。熱い情熱をもって語られるその内容はたいへん魅力的でした。その後、自ら応募して脳科学者の松本 元先生(当時・電総研)の講演会に行ったんです。このお2人にはすごく刺激を受けて、今でもその印象は強烈です。
毎年の学校の夏休みの自由研究発表会では、自分で作ったプログラムを公開していました。1人で作ったものです。中学1年では湾岸戦争後の都市復興のシミュレーション、2年のときには初期のハンドスキャナーを使ってモーフィングの研究を、3年では多角錐の影が光源の位置によってどう出るかを推定するレイトレースなどを作っていました。
毎週土曜日には大学院生の下宿先に通ってアルゴリズムを教えてもらいました。個人指導です。コンピュータが本当に好きでした。

熱中の仕方はほとんど“コンピュータおたく”のようですが、
学校や家庭ではどんな少年だったのでしょう。

学校ではそんなに目立つ存在ではなかったと思います。スポーツが得意でもないし、特に注目を集めるわけでもない。どんなタイプの同級生ともつき合っていましたが、好きなことは学校でも家庭でも1人でやっていました。わりにのんびりしていたんでしょうね。別に疎外感ももたずにやっていました。

周囲からの刺激が多くなる年頃ですが、自分の関心を貫くことはできたんでしょうか。

高校はコンピュータが強いところに進みましたが、吹奏楽部に入ってトランペットを吹いたり、バンドを結成したりしていました。コンピュータのほうはWindowsが出てしくみが複雑になり、扱いにくくなったせいで、興味が少々薄れてしまったんです。
一方で、脳には相変わらず強い関心を抱いていました。図書館や本屋でちょっと背伸びして難しい本を物色するのが好きでしたが、人工知能や人工生命というような言葉には強く反応するんですね。当時出版された人工生命の本を高校の隣にある大学の大学院生が翻訳していることを知って、「こんな近くにこんなすごい学生がいるんだ」と刺激されました。コンピュータは指示したことしかできないはずなのに、脳や生物がおこなっているような機能が創発されるわけですね。設計しない現象が生み出されていくのがなんとも不思議だったんです。どうしてそんなことができるのか、そのしくみを知りたいと思うようになりました。
大学は医学部をめざすか理工学部に行くか迷いました。理工学部には生体情報を専門にしている先生もおられるし、僕はコンピュータ好きですから、結局、理工学部に行くことに決めたのです。慶應の理工学部にはちょうど物理情報工学科という新しい学科ができたので、そこに進みました。この学科は医学部とのつき合いも深く、神経や筋肉をテーマにしている先生がいたからです。
理工学部に進んだものの、数学は苦手でした。中学の頃の成績はCをもらっていたものです。本当にやる気が出たのは大学3年頃からだと思います。基礎を基礎として学ぶのではなく、こんな応用があると出口を知るようになり、そのためにはこういう基礎を学ぶ必要があると納得して、勉強する動機がようやくつかめたんです。どういうふうに社会に役立つかが見えると、それに必要な基礎を勉強するというタイプだったんですね、僕は。
富田 豊先生の研究室に入ったきっかけは、先生がリハビリの研究をしていて医学との接点があったことが大きかったと思います。入ってすぐに、共同研究をしたいからと、医学部の先生を紹介していただきました。

大学の魅力にひかれ母校の教員に

小学生の頃に芽生えた興味をすくすく伸ばして、結果としてそれが職業になっていったのは幸せなことですね。企業への就職はまったく考えませんでしたか。

学者の家庭で育ったせいももちろんありますが、コンピュータのおかげで小学生の頃から大学に出入りしていたので、大学には親しみを持っていました。
大学というところは、みんなが創造的な仕事をしているし、若い人も経験を積んだ人も仲良くリベラルにやっていて、素敵な世界だなと思っていました。自分自身が大学生になってもその思いは変わらなかったですね。企業に魅力を感じる間もなく、そのまま大学の魅力に取り付かれて大学で仕事をすることになったのです。
慶應のおおらかな風土も好きですし、小学校に大学の先生が行ったり、中学生が大学に通ったりという全塾的な連携や、OBが慶應に話しに来てくれるなど強いネットワークがあるのは慶應のよいところだと思います。大学に就職するときにも、外を見回してみてあらためて慶應の魅力を強く感じました。
中学のときに御子柴先生の話に刺激を受けたので、僕も中学校に自分の専門のBMI研究の話をしに出かけています。4年目になります。このあいだは女子高にも行ってきました。少しでも恩返しができればいいと思っています。

大学の先生になって5年あまりですが、実際になってみていかがですか。
やりがいや難しさはどのようなときに感じられますか。

学生が育ってくれて社会に出てしっかりやっているのを見るとうれしいですし、「あのときの先生の言葉に勇気づけられました」などと言われると教員冥利に尽きると感じます。
一方で、人を相手にしている難しさは常に感じています。学生にこちらの気持ちが伝わらず、自信をなくすこともありました。あまりこちらから指示してもいけないと思いますが、学生によってはもっと細かく指示してほしいと思っている人もいて、迷うところも多いんです。難しすぎると言われることもあれば易しすぎると言われることもあって、落としどころを探しながらの試行錯誤です。
学部ではバイオサイバネティクスと統計学の講義を受け持っています。実験の授業もしています。研究の場では学生にわりと細かく言うほうかもしれませんね。研究や教育以外にも、医学部との調整、学内の仕事、医学系や工学系のさまざまな学会での講演、産学連携の仕事など、役割が多くなってきました。

BMIを患者さんに役立つものにしたい

産学連携ではどんなお仕事が進んでいますか。

最終的にはBMIを実際に患者さんに使ってもらえる道具にしていかなくてはなりませんから、それに賛同してくれる企業と組んで、一緒に生体信号分析のアルゴリズムを作ったり、機械を作ったりしています。会社によってマーケットまでの温度差があり、先行開発として勉強しながらじっくりやりたい企業からまっすぐに市場をめざすところまでさまざまです。業種はエンターテインメント、家電メーカー、自動車など、これまたいろいろあります。

最近、大きな研究プロジェクトに参加しておられるそうですね。

文科省の脳科学研究戦略推進プログラムです。慶應のほかに、ATR、東大、阪大、島津製作所などが参加しています。代表者は医学部リハビリ科の里宇(りう)先生で、慶應は医学部と理工学部の連携で取り組んでいます。

これからBMI研究をどんな方向に進めたいと思っておられますか。
短期、中期、長期の目標はそれぞれどんなことでしょう。

短期的には、いま立ち上げているリハビリBMIについて数年のうちにエビデンスをきちんと出すのが目標ですね。リハビリはBMIの新しいコンセプトです。学問として道筋をつけて、慶應から世界に発信したいと思っています。世界的にはこの分野で大きな研究拠点が2つありますが、私たちは医工連携の研究をずっとやってきたという自負があるので、BMIをフィールドにして花を咲かせたいという希望をもっています。数年で学問的な検証はある程度進むと思いますが、医療に結びつけるにはさらに年月が必要です。しかし、エアコンをつけるとかTVをつけるという程度の目的なら、数年でデバイスができてもおかしくありません。患者さんが購入できる程度の価格で使えるものを作る道筋をつけたい、というのがもうひとつの目標です。
中期的には脳科学をベースにしたリハビリのサイエンスを作り上げる一端を担えるようになりたいと思います。現在のリハビリはまだ経験則によるところが大きいんです。それが今、科学として体系化する方向に進んでいるので、自分もそれを担う一員になりたいと思います。
究極的な目標は教育に還元することですね。この分野は多くの領域を融合的に学び、多様な人と付き合う必要があるので、そうしたことを自発的にできる人間を育てたいと思います。自分自身も勉強しなくてはなりませんが、学生さんたちも一緒に成長してもらって、縦糸をちゃんともっていると同時に自ら隣の縦糸との間に横糸を張っていくことができる人間になってほしいと思います。
私は、前に述べたような家庭で育ち、小学校、中学校、高校でいろいろなことを学ぶなかで燃えられる対象を見つけることができました。幸い教員の立場になれたので、私も大学生の教育ばかりでなく、小中高の生徒たちが夢やきっかけを見いだせるお手伝いをライフワークとして続けていきたいと思っています。

お忙しい毎日ですが、気晴らしはどんなことですか。

最近はこれといったものがありませんねえ。仕事もそうですが、小さい子供が2人いるので、その世話でてんやわんやですね。仮面ライダーごっこをしたりするのが、気晴らしになっているかも(笑)。学生時代にやっていたバンドは数年前まではライブハウスを借りたりして続けていましたが、発展的に解消してしまいました。妻はリハビリの臨床医なので、家でも研究の話をしています。幼い頃のあこがれだった書斎を最近作ったので、のんびり本でも読みたいな、と思っていましたが、実際は研究費申請のための書類作りをしているのが現状です。

 

どうもありがとうございました。

 

 

◎ちょっと一言◎

学生さんから: 頭は切れるし、先を見通す力がすごい。表現力が豊かで理系には珍しいタイプかも。人をのせるのも上手です。楽しい研究室です。

秘書さんから: 整理整頓が苦手なのは頭の回転に現実が追いつかないせいかしら…。仕事についてはやさしくていねいに指示して下さいます。ほほえましいマイホームパパの一面も。

インタビュアーから:肩に力を入れずに成果をあげるタイプとお見受けしました。コンピュータ少年だった頃が目に浮かびます。先は長いので、働き過ぎて疲れを溜めないよう気をつけて。

(取材・構成 古郡悦子

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