小学6年生のときに中南米パナマから帰国したいわゆる帰国子女でした。当時パナマには(途中から土曜日だけの補習学校ができたものの)日本人学校がなく、現地のインターナショナルスクールでは英語とスペイン語のみの生活だったので、帰国したときは変な日本人(笑)で、特に中高生の多感な時期はIdentity Crisisに陥っていました。

そんな中で数学や化学の明快さと自然科学の深さ、面白さに光を見付けたことに救われ理系を目指すようになりました。 三田祭に遊びに行った時の雰囲気が気に入り、慶應義塾を目指すことにしました。慶應へは高校でチャレンジしましたがだめで、大学で晴れて念願を叶えることができました。

慶應義塾大学理工学部に入ってから日吉時代(1・2年生)は幅広く授業を選択しました。特にせっかく幼少時代に身に付けた語学力を維持向上するため、語学視聴覚研究所の授業を取ったのですが、英国人のエバンズ先生を含めて学年、学部も関係なく合宿等を楽しみながら学習できたことは忘れません。

レイテニスクラブ-この写真は珍しくテニスの練習中に撮影したものです

クラブ活動においては塾公認のレイテニスクラブに入りましたが、余りテニスの練習はせず専らコンパ要員でした(笑)。

また、社会勉強のため、ディスコのDJ、家庭教師、プログラム開発、モデル等硬軟いろいろなアルバイトをやりましたが、今の自分の会社を起業・経営する起源となったのが、学生起業家活動です。当時流行のディスコを借り切ってのパーティー運営からはじまり、スキーツアーの運営、プログラムの受託開発、家庭教師の派遣、恋人リサーチ等のいろいろな経験をしました。その中で、アルバイト以上の手応え、工夫次第で収益にも雲泥の差が出てくるような手応えを感じたのが、後の起業願望に繋がったかと思います。

またこの頃のディスコブームにはまったことをきっかけに、それからダンス活動はずっと続けており、今はサルサ、アルゼンチンタンゴと続いてます。

矢上キャンパスに移ってから入った中西研究室ではコンピュータサイエンスを専攻しました。当時は矢上の研究室ではDECのPDP11、日吉の情報科学研究所で富士通のメインフレームを、茅ヶ崎の武藤工業でVAX11とインターグラフのグラフィックコンピュータを、家ではNECのPC-8801mkIIを使って曲線生成の方法を研究。コンピュータというものに夢中になった時期でした。

NEC時代 プレゼンテーションの様子

卒業の際、就職か大学院進学か起業か迷いましたが、将来の起業を目標に一度就職をして社会経験を積もうということになり、NECに入社。主に海外向けにコンピュータや通信機器のマーケティング、海外現地法人の立ち上げから運営までの経験を積ませて頂くことができました。特にマレーシアでパソコンと携帯電話のトップシェアを獲得できたのは嬉しい記憶です。

当初は30歳を目標に起業を考えていましたが、その頃になると仕事も忙しくなり、なかなかタイミングが掴めず、ようやく35歳のときに社内ベンチャーへの応募をきっかけに、独立を果たすことができました。

創業時、KSP(かながわサイエンスパーク)の展示会にて1

展示会の様子2

現在のオフィスにて

創業当初はコンサルから始まり、いろいろな事業を経て、今はITオンサイトサポートサービスのジャパンエイドPC救急隊と言語サービスを主な事業として運営しています。

今年でサラリーマン時代13年、独立して13年の節目を迎えていますが、今後のグローバル展開を視野に入れて事業展開を図っています。

最近SNSが普及してから温故知新ができるようになりましたが、慶應では卒業25年目に大同窓会を行います。私は 126三田会 に所属していますが、昨年3月には幹事を引き受け、ホテルニューオータニを貸し切って1200名の大同窓会を開催することができました。この卒業25周年という社会人として油ののった時期に懐かしい面々と久しぶりに再会ができ、ノスタルジー以上の収穫を得ることができたのも義塾のおかげと思います。

126三田会の発足式典にて理工学部の同期生と

126三田会 集合写真

プロフィール

猿渡 一秀(さるわたり かずひで)
(神奈川県立希望ヶ丘高校 出身)

1985年3月
慶應義塾大学理工学部数理科学科 卒業

1985年4月
日本電気株式会社 入社

1997年12月
日本電気株式会社 退職

1998年3月
プラネットワークス設立、創業

現在に至る

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