長野の諏訪に生まれ高校までを地元の学校に通っていた自分が自らの意思で始めて進路をきめたのが大学進学であった。当時、何の迷いも無く慶應義塾大学を選んだことは今振り返っても間違いなかったと確信している。全国から集まってくる多くの同世代の仲間とより多くの友人を作り、自分自身の今までの小さな世界を少しでも大きな世界にしたかったことが理由の一つであった。
入学後は全学部共通クラブに入会し学部を超えた友人を大勢作れたことは本当に嬉しい限りである。それとともに友人だけでなく心から信頼できる先生方にも大勢出会うことができ、卒業した今でも定期的に自分の抱える悩みを聞いていただけている自分は幸せ者と感じている。
クラブの友人たちと
学生の頃は決して優秀な学生ではなかったと思う。日吉の駅をおり銀杏並木を上って行くところを反対の日吉の街になぜか消えていく機会が多かったのは何故だろうか?当時は携帯電話もなくアパートをでて学校まで行くときは今日の授業が何時限に何、何と思いながら日吉のホームに降りるが…駅を降りると偶然なのだが当たり前のように友人に会い日吉の街側に行ってしまうのだった。でも、クラス、クラブの仲間達には充実した学生生活を送れたことに本当に感謝している。
仲間とのスキーでの一コマ
3年の専門選択の時は自分の将来を意識して管理工学科を選択した。我が家は精密産業の集積地で父が精密部品製造の会社を経営しており、どうも私にその後を継がせたい気持ちがあるように感じていたことと、自分自身元来リーダシップが多少なりともあったのでそれを活かすのは家業を継ぐことがいいと感じたので経営というものを少しでも学べる学科がいいと思ったことと、川瀬武志先生のIEの授業がとっても興味の持てた授業であったことが理由であった。研究室でも多くの友人が同期、先輩とできた。それまでとは違う家族的な環境の中で研究活動にとどまらず多くの経験ができたことは今の自分の糧となっていることは間違いない。
研究室の友人たちと
今自分は家業を継ぎ精密事業をしている。今までの延長線の部品製造だけでは中国・アジアの追いかけてくる企業に勝てるシナリオは書けない。今まで以上に加工技術・技能を練磨し他社が追いつけないレベルにするとともに、新たな事業展開を20年近くかけて創ってきている。今まで国内では様々な規制からなかなか事業化することができなかった『医療機器事業分野』である。日本発の世界に通用する『人工心臓補助ポンプ』を田舎の企業が発信することに生きがいを見つけ、違う分野を歩む兄2人とともに事業化の日を目指して活動している。
日本の医療を取り巻く環境の変化と、周囲の関係者の皆さんによる理解・協力を得て、おかげさまで治験も順調に推移し、来年事業化申請ができるところまできており、本当に嬉しいことである。ここまでくるには様々な悩みがあった。その度に高所大所からさまざまなアドバイスをいただけた研究室の川瀬先生、金沢先生、松本君(現青山大学教授)には心より感謝しています。先生方に吉報を届けられる日が近いうちに来ることを目標に日々活動を継続していきたいと思っています。
人工心臓補助ポンプ
山崎 泰三(やまざき たいぞう)
(長野県立諏訪清陵高等学校 出身)
1985年3月
慶應義塾大学理工学部管理工学科 卒業
1985年4月
株式会社ミスズ工業 入社
1998年5月
株式会社ミスズ工業 代表取締役社長 就任
現在に至る