私は慶應義塾大学に学部4年、修士2年そして博士6年の計12年間在籍した。20代すべて慶應大学生であった。そんな不出来な私に、このような場で自らの想いを語る機会があることを大変光栄に思う。慶應在学中の経験が、今の生き方に大きな影響を与えている。その当時を思い出して、以下に記す。

慶應義塾大学に入学した私は、未経験のスポーツをはじめようと思い体育会馬術部に入部した。馬術部は生き物相手なので、土日を含めほぼ毎日部活動があった。唯一火曜日が休馬であったが、その日は理工学部の実験授業があったため休むことはできず、年がら年中大学へ通っていた記憶がある。残念ながら、私の忍耐力の無さから大した活躍もなく大学2年の冬に馬術部を退部することとなった。

そのとき、当時馬術部の夏の合宿先であった静岡県にある朝霧乗馬牧場を経営している松永弘明氏から、『人間、1度苦しい状況から逃げると逃げ癖がつく。次、また苦しい状況で逃げるかもしれないということを自分自身の肝に銘じておけ』と言われた。その当時、私はその言葉を素直に受け入れはしなかった。が後に、研究をはじめ様々なことに行き詰まった時に、その言葉が思い出され、過去に1度逃げた自分にはもう逃げ道はないと心を決め、ただ諦めず前進をつづけた。その結果が今の自分に続いている。慶應大学馬術部で得た出会いは、自分の生き方を決める大切なものであったと感じている。

退部後、真面目に大学に通いだした3年生の後期、後に研究室に配属される溝本雅彦教授の創造演習の授業を受けた。その授業では、学生1人当たり幾らかの予算が与えられ、その予算を用いて自由に工作しレポートを仕上げるというものであった。そのとき丁度、履修していた佐藤春樹教授の熱力学の講義で、ガラスの注射器を利用してスターリングエンジンが作製可能なことが紹介されていた。それを聞いて、私は創造演習でスターリングエンジンを作ろうと考えた。そして私の意見に賛同する他の学生3名と伴に作製を開始した。

我々は授業時間以外にも大学に集まり、議論し、エンジン模型の作製を試みた。がしかし、知恵も知識も足りず、全く上手く動かなかった。そこで佐藤教授に質問へ行くと、『埼玉大学でスターリングエンジンの模型を作製している研究室があるからそこに聞くといい』ということで岩本昭一教授を紹介して下さった。更に岩本教授にコンタクトを取ると、興味があるなら埼玉大学に来てスターリングエンジンを作製したらどうかとのお誘いを受けた。我々は『是非』ということで慶應の先生方の許可を得て、慶應大学生でありながら埼玉大学へ通うことになった。埼玉大学でのエンジン作製は、埼玉大学の先生方をはじめ研究室の学生の皆さんの丁寧な指導と協力を受け無事に完成した。当時、勢いよく回る自作エンジンを手に喜び勇んで慶應に戻ったことを思い出す。あのとき物作りのおもしろさを実感し、旋盤やフライス盤を用いた加工技術を身につけた。それらの技術は現在の研究でも実験装置作製に大いに役立っている。

製作したスターリングエンジン

大学4年生の春から溝本・植田研究室に配属され、現在も行っている燃焼研究を開始した。私は研究室に9年間在籍したので、少しの先輩と大量の後輩がいる。総ての人と仲良くなれたわけではないが、多くの人々と研究について、そして将来のこと、社会のこと、思想や趣味、そして、たわいないワイドショーネタから人生についてと様々なことについて長い時間をかけて飽きもせず真剣に議論した。

研究室の仲間

さすが慶應と言えようか博識の人間が多く、私のディベートというか口喧嘩の能力は、研究室時代で飛躍的に向上した。そうした過程を経て大学を卒業してもなお、連絡を取り合う仲間ができた。そんな彼らと理工学部の運動会に参加し、力を合わせてドッジボール大会で優勝したのは本当に良い思い出である。また、研究に対して真摯に向き合うという価値観を共有できる研究室の仲間の多くが、博士課程に進み伴に研究者の道を歩むことになったのは、自分の能力を切磋琢磨する上で大変有益であった。

理工学部運動会 ドッジボール優勝

慶應義塾大学を離れ、他の大学を知る機会が増えた。その中で、多様性を許容し、自由と平等を尊重した教育・研究を行う文化が慶應大学には存在していることを理解した。もちろん他の大学も、その大学なりの優れた学風を備えている。しかし、昔ながらの教授を頂点とする強烈なヒエラルキーのもとに研究を進めてゆくような雰囲気がほとんどない慶應大学の学風は、非常にユニークであると感じている。また学問に対して真摯で、他と比べて卒業論文、修士論文そして博士論文の審査が丁寧にそして厳しく行われていることを知り感心した。このように、母校を離れて初めて自らが12年間も通っていた大学の魅力を知ることとなった。

この多様性を許容し平等性を尊ぶ校風の起源は、やはり建学の祖、福沢諭吉の思想であり、そこから出発し長い年月をかけて醸成された大学の文化なのだと思う。強固な思想を基盤とした研究・教育機関であるために、他の大学、特に国立の大学とは異なる大学文化を慶應大学は形成していると感じる。そして、この慶應の大学文化を評価する卒業生の多くが、自分の子息をまた慶應に入学させたいと思うのだろう。

理念から出発した慶應大学が有する文化は、最近、巷でよく取り上げられる論文雑誌掲載数そして研究費獲得額や受験偏差値のような数字では序列化できない独自の価値を有していると考えている。私は、そのような場で、学び成長できる機会があったことを大変恵まれていたと考えている。

現在、多くのすばらしい先生方がおり、また慶應の学生のようにハッチャケルことはないが、雪降るなか登校し勉学に励む忍耐強さをもったすばらしい学生たちがいる弘前大学で、研究・教育を行えていることにも幸せに感じている。

最後に、溝本雅彦教授、植田利久教授そして松尾亜紀子准教授には学生時代にご指導を頂いた。そして徳岡直静准教授には、学生時代に様々なアドバイスを頂きお世話になった。ここに記して心からの感謝の意を表する。また共に学んだ研究室の仲間に深謝する。

プロフィール

鳥飼 宏之(とりかい ひろゆき)
(國學院大學附属久我山高等学校 出身)

1994年
慶應義塾大学理工学部機械工学科 卒業

1996年
慶應義塾大学大学院理工学研究科機械工学専攻修士課程 修了

2000年
資源環境技術総合研究所NEDO提案公募研究員(-2001年3月)

2002年
慶應義塾大学大学院理工学研究科機械工学専攻博士課程 修了

2002年
東北大学流体科学研究所付属衝撃波研究センター研究機関研究員

2003年
独立行政法人産業技術総合研究所NEDOフェロー

2006年
弘前大学理工学部知能機械工学科 助教授 

現在に至る

ナビゲーションの始まり