アンニョンハシンミカ! チョヌン ホンダエイトシ インミダ。

私は今、韓国の釜山で小学校の先生をしています。数ある慶應理工学部の卒業生の中で、小学校教師をしている人はそうはいないと思います。それでは、なぜ今ここでこのようなことをしているかというと、話せば長くなるのですが・・・・。

まず、私が慶應に進学したいと考えた大きな理由は、慶應で野球をやってみたいと思ったからです。私は、20年程前は坊主頭で甲子園を目指す一球児でしたが、夢叶わずあと一歩というところで敗れ去りました。その悔しさもあり、もっと野球を続けたいという思いが自分の中で湧き上がり、猛勉強?の成果か、推薦で入学することができました。念願かない合格し、入学式を待たずに、野球部に入部、合宿所生活が始まりました。部員100人を超える中、理工学部の学生は3人だけでした。大学生活の中でもっとも私の心に残っているのは、やはりこの野球部での生活です。4年間のシーズンの中3度リーグ優勝を果たしました。神宮から三田までのパレードは、何度やってもいいものです。4年の秋には明治神宮大会でも優勝し、日本一の栄冠を勝ち取る事ができ、有終の美を飾ることができました。しかし私個人としては、公式戦に1度しか出場することができずに終わってしまい、悔しい思いもしましたが、仲間と共に過ごした4年間は忘れられない思い出であり、一生の友と出会うことができ、本当に感謝しています。学業の方も、たくさんの仲間に支えられ、共に励むことができました。

4年秋 対東大戦にて

そして、4年の夏頃になり私も進路を考えなければならない時期となりました。これが私の人生の1つの転機でした。私は一般企業に就職しようと思い試験を受けたのですが、その安易さゆえ落ちてしまいました。少しだけ社会の厳しさを知りました。その後心機一転、修士へ進学し、研究というものをしてみました。野球をやっていた分、6年間通ってやっと他の学生の4年間分だったと思いますが、研究室での3年間は、私に学ぶことの楽しさを教えてくれたものでした。元来、何かを作ったりすることが好きだったので、徹夜の実験でもそれ程苦になりませんでした。予想通りの結果が出たときの嬉しさは、それまでの苦労を吹き飛ばしてくれます。そんな研究を続けていく中、再度進路選択の時期がやってきました。

私の第2の転機です。私は、自分にしかできないような自分らしい生き方がしたいと思い、修士修了後、青年海外協力隊に参加、両親の反対を押し切って未知の世界へと飛び込みました。アフリカのザンビアという国で理数科教師としての2年間の活動は、私の人生を大きく変えました。言葉も文化も違う国で私は一教師として、ザンビアの子どもたちと共に学びました。更に、野球の道具を日本から持って行き、私の行った学校に野球部を作りました。ベースボールという言葉を聞いたこともない子供達に野球を教えるのは大変ではありましたが、初めてボールが打てたとき、初めてボールが取れたときの子供達の笑顔は忘れることができません。ザンビアでの2年間が私を教員への道へと導いてくれました。

我が野球部の子ども達と右端高木さん、一番近くに住んでいた日本人(100km先)

しかし、私は教員免許を持っていなかったので、慶應の特別聴講生という制度を知り、7年目の慶應生活を送りました。その1年間は、かなり忙しいものでした。教職課程の授業を受け、教育実習に行き、教員採用試験を受け、そして生計を立てる。充実した1年間を送り、晴れて地元福島県の中学校教諭として採用されました。その学校での7年間は、決して平坦な道ではありませんでした。教えることの難しさを感じ、うまくいかないことも多くありました。そんなときでも、素直でひたむきな心で私と共に歩んでくれた子供達、温かく見守ってくれた保護者、地域の方々、多くのことを教え導いてくれた同僚の先生方、たくさんの方々の支えの下、たくさんの喜びと感動を味わうことができました。そんな折に、海外の日本人学校に勤務する機会が与えられ、ここ釜山日本人学校で小学3年生5人の担任をしています。

本田栄敏とかわいい仲間達

人生というのはわからないものだなあとつくづく感じます。ですが、今までの全ての過去が今の為にあったのだと思います。私にはたくさんの仲間ができ、すべて大きな財産となりました。だからこそ、今を精一杯生きることが何よりも大切だと信じています。

カムサハンミダ

プロフィール

本田 栄敏(ほんだ えいとし)
(福島県立安積高等学校 出身)

1993年3月
慶應義塾大学理工学部応用化学科 卒業

1995年3月
慶應義塾大学大学院理工学研究科応用化学専攻修士課程 修了

1995年7月
青年海外協力隊員(理数科教師)としてアフリカ・ザンビアで活動(~1997年8月)

1998年4月
慶應義塾大学特別聴講生

1999年4月
福島県白河立東中学校教諭

2006年4月
大韓民国釜山日本人学校勤務(文部科学省より派遣)

現在に至る

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