「あなたの人生に最も大きな影響を与えたものは何ですか?」という質問をされたとしたら、私は「慶応物理学科」と答えます。

子供の頃から理科は大好きで得意でしたが、算数・数学の類は得意ではありませんでした。ただ、数学に対する興味は大きく、難解な記号列から発せられるある種の神秘性、実利に媚を売らない潔癖さ、浮世離れした数学者のエピソードのストイックさ等に若者特有の憧れすら抱いていました。理工学部では1年目は学科分けはせず授業を受け、2年生になるときに各自学科を選択することになっていました。このシステムのおかげで、1年生のうちに数学を駆使して自然を解明する物理学への興味を大きく膨らますことができ、2年生で物理学科を選択したときには何の迷いもありませんでした。

4年生の卒業研究の所属研究室を決めるときになっても数学のそばで研究をしたいという気持ちは変わらず、理論研究室を希望しました。しかし、理論研の人気は高く定員以上の希望者がありました。そのような場合は、鉛筆をサイコロ代わりにして振って当たり外れを決めるという、"恐ろしく公平な"ルールで人数を調整していました。神がサイコロを振るかどうかは知りませんが、サイコロは私の意志に反して回り続け、ついに私の志望研究室の中で最下位だったX線回折の若林研究室に配属されることに決まったのです。ふてくされていた私にも、若林先生はX線回折と有機伝導体の物性の面白さを指導してくれました。が、将来このテーマを仕事として研究することになろうとは想像すらできませんでした。

鉛筆サイコロが運命を決めた瞬間(左:斉藤先生,右:川村先生)

修士課程になると数学への興味はさらに増し、身の程知らずにも理論物理を選択、苦手なはずの数学を用いて場の理論の研究に挑戦することにしました。いくつかの学会発表や学術論文誌への投稿ができるようになるまでご指導頂いた福田先生への感謝は言葉では言い表せません。このときの研究の進め方が、現在の研究の進め方に大きな影響を与えています。また、多くの気の置けない友人にも恵まれました。バブル時代という背景も手伝ってか、何にも束縛されることなく、ある日は夜通し友と語りあい、ある日は徹夜で机に向かい夢中になって計算を進め、楽しくて仕方がない日々の連続でした。極めつけは、修士2年の11月に下宿していたアパートが突然経営をやめるという予期せぬ"事件"です。この事件のおかげで学生最後の3ヶ月間は文字通り研究室に住み込み、人一倍学生生活を堪能することができました。まさに夢のような時代だったと思います。

修士課程を修了し1991年にソニー(株)に入社しました。そこで量子力学的効果を用いた半導体デバイスの研究を行うことになりました。当初、いわゆる「理学」出身の私は、デバイス製造技術や評価技術を全く知らない所謂"使えないヤツ"でした。しかし、学生時代に物理の基本を叩き込まれていたおかげで、徐々に工学の分野でも成果を出せるようになってきました。 1998年から1年間は、縁あってマサチューセッツ工科大(MIT)物理学科で客員研究員として研究をする機会を頂きました。しばし会社生活から開放され、世界中の研究者と久しぶりの大学での研究生活を送ったのは非常に刺激的でした。MITでは研究者同士の交流が非常にオープンであり、様々な分野の研究者と話をする機会がありました。科学技術の世界において、物理は様々な分野に渡る共通言語のようなところがあります。そのため、私にとっては自然言語学上の違いが大きい日常会話より、難しい研究の話のほうがコミュニケーションを取りやすいということがしばしばでした。また、渡米をきっかけに、入社以来行ってきた研究をまとめ、慶大において審査していただき、博士(理学)を頂きました。このとき「理学」にこだわったのは、それが学生時代に果たせぬ夢であったからです。

MIT客員研究員時代

その後、一旦は半導体デバイスの実用化に向けた開発を行い、3年前からは、再び研究畑に戻り、有機半導体デバイスの研究を行っています。17年前に外れくじを引いて1年だけ行った研究テーマです。今度は自ら志望して始めました。このテーマの魅力を理解するのに、17年かかったわけです。ただ、17年前に立ち返ったわけではありません。今は、物理を機軸として積み重ねた17年分の経験があります。また、当時は一人で研究をしていましたが、今では大勢の若い "使えるヤツ"が共に研究を進めてくれます。最近ではISSCCという半導体素子回路で権威ある国際会議よりAwardを頂きました。現在は、有機材料をエレクトロニクスに応用し、従来の無機材料では出来ない世間をあっと言わせるような商品の実現を目指して頑張っているところです。

海外出張先で(フランクフルト)

この様に、これまで一介のサラリーマンであるにも関わらず、いつも物理に関わる機会に恵まれ、今でも学生時代と変わらず夢を持って研究をすることができるのは、物理の面白さと重要性を指導し頂いた物理学科の先生方と、物理を学ぶことを共に楽しみ苦しんだ物理学科の仲間のお陰だと思っています。

というわけで「あなたの人生に最も大きな影響を与えたものは何ですか?」という質問をされたら、私の答えは迷わず「慶応物理学科」となっているのです。

プロフィール

野本 和正(のもと かずまさ)
(埼玉県立熊谷高校 出身)

1989年
慶應義塾大学理工学部物理学科 卒業

1991年
慶應義塾大学大学院理工学研究科物理学専攻 修了

1991年
ソニー株式会社 入社

1998年9月~1999年8月
米国マサチューセッツ工科大客員研究員 入社

2000年
慶應義塾大学大学院理工学研究科より博士(理学)取得

2005年
IEEE International Solid-State Circuits Conference Special-Topic Evening Award受賞

現在
ソニー(株)マテリアル研究所 所属

ナビゲーションの始まり