「何を研究してるんですか?」と聞かれたら、とりあえずは「現代思想です」と応えます。現代思想というのは、ヨーロッパを中心に20世紀なかばから展開され現在まで続いている人文知における再編成の動きをひっくるめて呼ぶ大ざっぱな総称です。

私は、フランス現代思想の代名詞的存在であるミシェル・フーコーやジャック・デリダの著作を翻訳紹介し、研究対象としています。翻訳にフーコー『安全・領土・人口』、デリダ『死刑Ⅰ』が、また研究書に『フーコーの後で』(共編著)、『デリダと死刑を考える』(編著)があります。

私はイタリアもフィールドにしています。イタリア現代思想の代表者の1人であるジョルジョ・アガンベンの著作を多数翻訳し(『人権の彼方に』『ホモ・サケル』『バートルビー』『思考の潜勢力』『王国と栄光』『ニンファ』『スタシス』)、研究書『アガンベンの名を借りて』も世に問うています。

さて、私の研究の内実については今回はこれ以上は触れません(私のホームページをお訪ねください)。上に挙げた業績はすべて日本語で書かれているので、権利上は誰もが無理なく参照できます。以下では、無理なく参照できるというそのこと自体に関わる、ある意味では表面的・形式的なことについてのみ書きます。

私の仕事において翻訳は質・量ともに無視できません。いまだに「翻訳など、横のものを縦にするだけだ。まともな業績とは見なせない」という意見を耳にすることもありますが、「世界のさまざまな議論を日本語環境で正確に参照できるようにする」という営みが軽視されてよいはずがない。だいたい、「横のものを縦にする」だけではアカデミックな翻訳は成立しません。

日本語を母語とする研究者にあっては、英語はできたとしてもフランス語はできないという人が大半だろうし、イタリア語については大抵は埒外でしょう。翻訳の営みには、「日本語と英語しか読めない研究者に対して、フランス語やイタリア語での議論を参照できるようにする」というような、研究の世界の内部での効能が当然ある。

それだけではありません。現代思想は、というより、広く言って人文知は、権利上はすべての人がアクセス可能です。「日本語で万人が読めるようにする」という意味では、現代思想の翻訳という営みの意義を、たとえば文学作品を翻訳することの意義と重ねて考えることもできます。

(念のため言い添えれば、以上は英語にも妥当します! 英語だって、研究の世界での事実上の標準言語だとはいえ、「翻訳なんか要らない。英語なら、どんな文章でも日本語を読むようにスムーズに、間違えることなく意味が取れる」と大口を叩けるほど簡単じゃない。とんでもない……。)

翻訳は重要な仕事です!

本文中で言及した仕事と、翻訳のオリジナル

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