私たちは、新しい有機反応の開発を主に研究しています。有機化合物は、医薬品から機能材料に至るまで、我々が日常生活を送る上で重要な役割を様々な形で果たしています。一方、大学レベルの有機化学の教科書を覗いてみると、これらの出来上がった有機化合物についても記述はあるものの、大変多くの部分が「反応」に割かれていることに気づくでしょう。それは有機化学の大きな魅力の一つが、複雑な構造をもつ有機分子を自分でデザインしたうえで、合理的な考えに基づいて反応を使うことで「合成」することができるからです。つまり、様々な有機化合物を合成するうえで反応は重要なツールであり、多様な反応をうまく組み合わせて使うことで目的とした化合物を組み上げることができるのです。
多くの反応が既に知られているなかで、これ以上に反応を開発する必要があるのでしょうかという疑問も湧いてくるでしょう。実際には、有機反応の開発は今でも世界中の非常に多くの研究者が精力的に行っており、多くの反応が日々見出されてきています。なぜなら、有機合成化学には更なる発展が欠かせないからであります。勿論、既に知られている医薬品や天然有機化合物、機能材料を効率的に合成することも重要です。しかし、人類は既存の物質がもつ機能を超える、もしくは既存の物質にはない機能をもつ有機分子が見つかることを夢見て、無数の有機化合物の合成を世界中で試みています。また世の中に既に存在してきた既知の有機化合物(数千万?)も非常に多くありますが、有機分子の構造を適当に描いてみると比較的すぐに未知物質にたどり着けるほどに、まだ世に存在していない有機化合物は多いのです。そしてその未知物質の性質や機能は、当然のことながら誰も知らないのです。そのため、多くの有機化合物(勿論、目的に応じてデザインされたものではありますが)を迅速に供給できる方法、願わくは可能な限り社会に与える負荷が少なく、かつ安価な方法の開発が求められており、その根幹をなす新しい有機反応の開発は大変重要な意味をもつのです。
私たちは主に遷移金属元素を含む錯体と呼ばれる化合物を触媒として用いることで、新しい有機反応の開発を試みています。遷移金属錯体触媒を用いて有機反応を行うこと自体は、この分野の研究が今世紀に入ってから既に三回もノーベル化学賞の対象になっていることからも明らかなように、現代では当然のように行われていることです。有機反応において遷移金属錯体を用いることの魅力は、多様な反応形式や特異な選択性にあります。例えば、通常では難しい結合形成や切断、組み換えなどを実現したり、また目的とした反応だけを選択的に起こさせたりすることが可能になります。実際にどのような反応が起こるかは選ぶ条件によって様々に変化します。私たちにとって周期表は様々な性質をもつ「元素」の道具箱であり、ここからまず触媒活性中心に置く元素を適切に選択し、さらに元素上に配置する原子団である「配位子」についても多様な構造の中から選んだうえで、様々な角度から反応条件を工夫していくことで今までにない有機反応を実現することができるのです。例えば私たちは最近、パラジウム触媒が炭素鎖上を動き回るような「チェーンウォーキング」という機構をうまく有機反応に組み込むことで、今までにない結合構築法を開発し、その成果は慶應義塾のHP内の Keio Research Highlights でも取り上げていただきました。現在、この方法を用いた更なる新反応の開発を目指して研究を進めています。
図1 パラジウム触媒によるチェーンウォーキングを経る1,14-ジエンの環化異性化反応
以上、新しい有機反応の開発について述べてきました。反応開発は様々な元素、化合物などの物質を駆使しながら進めていきますが、実際にはその使用する物質の性質はまだ理解できていない部分が多くあります。例えば各遷移元素がある配位子をもっているときにどのような反応性をもつのかということについて、化学の急速な進歩によって理解できることも増えてきましたが、実際の反応性は私たちが簡単に予測できるものではないのが現状です。逆に言えば、これらの様々な元素の性質に対する基礎的な理解をさらに深めることで、今まで見たことのない元素の「個性」を引き出すことができれば、化学の飛躍的な進歩に繋がる新しい反応が開発できると期待できます。私たちもそのような有機反応につながることを目指して、様々な化合物と真摯に向き合いながら研究を続けていきたいと思っています。