ロシア語と言語学を専門にしています。ロシア語を専門していると言うと、「なんでロシア語を選んだの?」という質問をたびたび受けます。どうして人はこう何でも理由を求めるのでしょう。厄介な質問の一つで、「ドストエフスキーが云々かんぬん」などとそれっぽく答えようとしていたときもありましたが、最近は「カンで」答えることが多いです。面倒だからこう答えているわけでもなく、この答えがけっこう的を射ている気がしてます。

カンにしてはいい選択だったと思います。ロシア語には古い言語現象の痕跡が多く残されていたり、風変わりな文法規則がたくさんあったりと、わたしの言語学的な興味を満たしてくれるところがあるからです。多くの印欧語が格変化をとっくの昔に失っているなか、ロシア語では名詞、代名詞はもちろんのこと、固有名詞や数詞までも語形変化します。このおかげで外来語は入りにくいです。あるいは時制は未来、現在、過去とシンプルなのですが、未来形、現在形は人称による変化なのに対して、過去形だけ主語の性に応じて変化するという規則や、「20人の学生」は複数形で表記するのに、「21人の学生」は単数形で書かなければならないといったように、何ともユニークな文法事象が多くあります。授業で何度話してもおかしくて毎回笑ってしまいます。こんなどこかヘンなロシア語が性に合っているようです。

ロシア語と日本語には系統的な共通性はありません。しかし、わたしのもう一つの専門の言語学の観点からロシア語と日本語と比較してみると、意外にも共通点が浮かび上がります。もちろん、たとえば、日本語の「~になる」の表現です。「お亡くなりになる」、「結婚することになる」、「全部で千円になります」、「おいでになる」のように「なる」は本来の「変化」を表す意味から、物事が自分の意志とは関係なく、あたかも自然に起こってしまったかのような婉曲的なニュアンスを加える用法や、さらにそこから敬語表現にまで意味が拡張しています。こうした意味の拡張がまったく同じようにロシア語の「なる」を表す動詞статьにもみられるのです。ちなみに英語のbecomeにこうした意味はみられません。言語学の目標の一つは言語の普遍性を探ることですが、日本語とロシア語というユニークな二言語を比較すると、驚くべき類似性に遭遇することがあります。

カンで始めたロシア語がわたしにとっては欠くことのできない存在になりました。強い動機づけがあったわけでもなければ、社会の役に立つような研究でもないかもしれませんが、授業で出会うみなさんにこういう学問の楽しさを少しでも伝えられればいいなと思います。

ロシアの日本食料理屋「やきとりや」

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