確率論の生い立ち
確率論は 1654年のパスカルとフェルマーによる貴族の賭けに関連した往復書簡に始まるといわれています。その後も純粋な思考ゲームとして発展し、1812年のラプラスの「確率の解析的研究」で古典的確率論が集大成されました。この間には 1713年にベルヌーイが大数の弱法則を発見し、その平均近くでの精密化である中心極限定理がド・モアブルやラプラスにより証明されました。大数の法則が確率 1で成立するという、大数の強法則はその後 1909年にボレルにより初めて証明されました。また、大数の法則が成立するときに平均から大きくはずれた事象が起こる確率の漸近挙動を扱う大偏差原理も 1929年にヒンチン、1938年にクラメールにより研究されました。確率論ではこのような極限定理が一つの関心の中心になっています。現代確率論は 1933年のコルモゴロフの「確率論の基礎概念」から始まったといわれています。コルモゴロフはここで、ランダムネスとは何かは不問として公理論的立場から確率の基礎を測度論的に与え、その後確率論は急速な発展をとげました。
ブラウン運動
現代確率論はブラウン運動を基礎にした理論だといわれます。ブラウン運動の名称は 1828年に植物学者ブラウンが顕微鏡下で花粉の粒子がジグザグに動くことを観察したことに由来します。1905年にアインシュタインが分子熱力学的考察を行い、微粒子の拡散係数とアボガドロ数の間の関係式を導いています。このようにブラウン運動は微粒子に水の分子がでたらめに衝突することで引き起こされることは物理学的には示されていますが、このことは特に多次元の場合には数学的には現在も研究が行われているテーマです。理想化されたブラウン運動の数学的な構成は 1923年よりウィナーによってランダムな係数をもつフーリエ級数として行われました。ブラウン運動と解析の関連では、ある関数にブラウン運動を入れて平均をとれば、熱方程式の初期値問題の解を与えることがわかります。また、ある領域への到達時刻までの平均をとればディレクレ問題の解の確率論的表示も得られます。
ウィナー汎関数、伊藤の公式
しかし、一般の拡散過程に対して同様のことを行おうとすると、拡散過程を構成するためにそもそも拡散方程式の基本解が必要になります。そこで、一般の拡散過程を確率論的手法で構成することができないかと考えられます。これを可能にしたのが伊藤清先生による確率微分方程式の理論です。つまり一般の拡散過程はブラウン運動の道の汎関数(これをウィナー汎関数と呼びます)として与えられ、それは確率微分方程式を解くことで実現されるというものです。このような確率過程の道に関する微積分を確率解析と呼びます。ブラウン運動の道は連続ですが、到るところ微分不可能で、全変動も確率 1で発散しているため、通常の微積分はできません。しかし伊藤先生は1942年にブラウン運動による確率積分を極めて自然な形で導入し、この確率微分の連鎖律である「伊藤の公式」を中心とする道の微積分の計算法を与え、確率微分方程式を正当化されました。確率微分方程式は偶然現象を記述する運動方程式として、今日では物理学、工学、生物学、経済学等広い分野で応用されています。このようにウィナー汎関数の平均として拡散方程式の解を与えると、そのドリフト項のずれに対しては丸山-ギルザノフ汎関数、ポテンシャル関数を持つ場合の解はファインマン-カッツ汎関数を用いて与えられることが示されます。このファインマン-カッツの公式を用いると、ポテンシャルを持つラプラシアンの第一固有値を表せますが、これと第一固有値の変分原理による表現が等しいことを解析を通さずに確率論的に証明できるかという問いがカッツによってなされ、これに対する解答がドンスカーとヴァラダンによって1970年代初めに与えられました。これがその後の大偏差原理の大きな発展の出発点にもなっています。
田中の公式とウィナー超汎関数
ブラウン運動の超関数的な見方の一つとして局所時間があります。これはブラウン運動の滞在時間の位置に関する密度関数にあたる重要な量です。これに関しては、1981年から 1998年まで本理工学部で教授をしておられた田中洋先生が若い頃に伊藤の公式をδ-関数にまで拡張することで、確率解析による明快な存在証明ができることを発見されました。この公式は今日では一般化され「田中の公式」として広く用いられています。残念ながら田中先生は昨年 7月に亡くなられてしまいました。一般のウィナー超汎関数についてはまず1980年頃にマリアヴァンがウィナー空間上のオルンシュタイン-ウーレンベック過程を用いた道の微分を導入して、多くの重要なウィナー汎関数は不連続ではあるが滑らかであることを示しました。その後多くの日本人研究者の結果を含む研究成果を経て、渡辺信三先生がマリアヴァン解析をウィナー超汎関数論として構成されたことにより正当化されました。伊藤解析の範囲内では解析学の援用無しには扱えなかった拡散過程の基本解そのものもウィナー超汎関数として確率解析的手法で扱えるようになり、応用範囲は一挙に広がっています。
私自身は、大偏差原理や田中先生の研究に参加させて頂いた、ランダム媒質中の確率過程の漸近理論等確率解析に関連した問題を中心に興味を持っていますが、現在では確率論は確率解析に関連したもの以外にも、ギブス測度、相の境界モデル、浸透のモデル等の数理物理的問題をはじめ、広い分野に応用されています。