「心」と「ことば」の歴史学。きっとみなさんはこのタイトルを少し不思議に思ったかもしれません。  心を扱う学問は哲学、心理学、脳科学など多種多様ですし、「ことば」を扱う学問も、言語学の中でもさまざまなアプローチが可能です。私が知りたいのは、人と人とを結びつけてきたことばが人間の心に与える力を正しい歴史認識に基づいて検証することです。

ことばの持つ社会性を歴史的に考察してみると、私たちが人間に普遍的な行為・行動だと考えていたものが、実は時代・文化に規定されている事実を確認できます。たとえば、私たちが日ごろ何気なく行っている「読む」という行為も、人間ならみな同じというわけではありません。

現代に生きる私たちは、黙読をごく自然の行為だと受け止めていますが、ヨーロッパでもある時期まで書物を読むことは、音読なしには考えられませんでした。書物の中に記された文字は、読み上げられてはじめて解読される記号であって、音なしには理解できなかったのです。

表意文字と表音文字の両方を用いる私たち日本人は、音を表す表音文字とそれ自体意味を持つ表意文字が交互に並ぶ文章を「読んで」います。器用な私たちは、文字を使うのであれば、それがどんな言語記号を用いていても、視覚的に提示された文字を読むという行為は同じだと、単純に想定してしまいがちです。

ですが、表音文字・表意文字のどちらを用いるかによって、情報処理を行う大脳皮質の部分は異なりますし、同一の言語であっても、聴覚で理解するときと視覚的に理解するときで反応する大脳皮質が異なります。私たちが何の疑問も持たずに、同じだと考えている言語行為も、言語が持つ特性によって、人間の文字認識は違ったプロセスをたどっているのです。

それではなぜヨーロッパの人びとも、黙読できるようになったのでしょうか。私たちが一番知りたいと思う人間の心のメカニズムに関する研究は、日進月歩進んでいますが、その際に重要なのは、人間に普遍的な特性なのか、それとも文化によって規定された可変的なものなのかという正しい歴史理解に基づいた線引きです。私が歴史学というフィールドから目指しているのは、誤った先入観のない人間理解なのです。

慶應義塾図書館所属インキュナブラコレクションより
「リヨン式ミサ典書」

岩波教授の近著
「誓いの精神史 中世ヨーロッパの<ことば>と<こころ>」

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