うまくいかないと感じた時も「ここでできることは何か?」と考え多くの貴重な経験を積んできた

「パーマネントの研究職に就くまでに、あちこち渡り歩いてきました」と話す田中さん。そんな不安定な境遇さえも味方にして、ついには「量子アニーリング」という新しい研究分野で独自の世界を築くことになった。研究室主宰者になった現在、「人生はそんなに甘くない」と厳しい一面を見せながらも、異なった背景をもつ学生たちがそれぞれに力を発揮して活躍してくれることを願っている。

Profile

田中 宗 / Shu, Tanaka

物理情報工学科

専門は量子アニーリングをはじめとしたイジングマシン、統計力学、計算物理学、物性理論。2003 年東京工業大学理学部物理学科卒業。2008 年東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。博士(理学)。東京大学物性研究所、近畿大学量子コンピュータ研究センター、東京大学理学部化学科、京都大学基礎物理学研究所、早稲田大学高等研究所、早稲田大学グリーン・コンピューティング・システム研究機構を経て、2020 年より現職。2022 年より慶應義塾大学ヒト生物学-微生物叢-量子計算研究センター(Bio2Q)副拠点長、ならびに創業したスタートアップ企業Quanmatic のCTO を兼務。2024 年よりサスティナブル量子AI研究センターセンター長を兼務。

研究紹介

「新版 窮理図解」では、毎回ひとりの研究者を取り上げて紹介します。

今回登場するのは、量子アニーリングのハードウェア、ソフトウェア、アプリケーションといった様々な領域の研究開発に関わっている、田中宗准教授です。

物理と情報の間の新領域を切り拓く面白さ

量子という物理現象の本質を申し分なくコンピューティングに生かしていく

“モノを扱う物理の言葉で、コトを扱う情報を理解できる”、これをあるときに知った学部時代の感動が、田中さんの研究の原点だ。今や物理と情報の境界は科学の最先端にある。田中さんは、量子ゆらぎを使ったアニーリングによる計算手法で、組合せ最適化問題を解き、配送計画、生産システム、新材料開発など様々な分野の効率を画期的に高めようとしている。

世界は組合せ最適化問題でできている?

朝起きて、今日はどの服を着るのか、朝食は何を食べるのか、学校や仕事場までどういう道筋でいくのかなど、私たちは様々な選択肢から、格好よさ、コストパーフォマンス、安全など、いろいろな評価基準をもとに次々と選択している。「このように、多数の選択肢から評価基準に基づいて最もよい選択肢を選ぶコトを、『組合せ最適化問題』といいます」と
田中さんは説明を始める。
仕事や産業の場にも、荷を配る、機械や機器を動かすなど、各種の工程における効率的な順番といった組合せ最適化問題が無数にある。この問題の難点の1つは、荷を届ける場所が多くなると、組合せの選択肢の数が爆発的に増えてしまうことだ。「そこで、工夫された問題の解き方(アルゴリズム)が必要になります。その中で最近注目を集めているのが、組合せ最適化問題を高速に解くことが期待されている量子アニーリングの出番になることです」(図1)。

図1 荷の配送計画の最適化 量子アニーリングを用いることで、「どのような順番で荷を配送すれば効率がよいか」といった解を高速に探索することが期待されている。

物理現象を計算手法として使う

量子アニーリングは、最適化問題に対する効率の良い計算方法として知られている。現在注目を集めている量子コンピューティングの一種であり、物理学と情報工学の境界領域に位置づけられている。
「最適化するということは、何かを『最大化』あるいは『最小化』することです。どちらも数学的には取り扱い方は同じです。ここでは、最小化する場合を考えてみましょう。一般に物理学では、エネルギーが低い状態を安定状態とみなします。量子アニーリングと呼ばれる計算手法は、この考え方を組合せ最適化問題に適用するように作られています。つまり、エネルギーが低い安定状態を探索することで、組合せ最適化問題の最適解を探索する、という考え方です」。
アニーリングを日本語訳すると“焼きなまし” のことであり、材料工学で使われる用語である。合金を生成する際、合金の成分である金属原子を熱によってバラバラにし、温度をゆっくり下げていく。この工程によって安定した原子配列が生成される。このような現象から着想を得た計算方法がシミュレーテッドアニーリングと呼ばれる方法である。シミュレーテッドアニーリングでは熱を用いるが、量子アニーリングでは熱の代わりに量子ゆらぎを用いる。量子ゆらぎがある場合、量子ビットに書き込まれた値は0と1の量子重ね合わせになる。その状態から量子ゆらぎを弱めていくと、0あるいは1に収束して安定な状態になり、その時に示される値が組合せ最適化問題の解となる。
「量子アニーリングは、私が2002年に卒業研究のために入った東京工業大学(2024年10月より東京科学大学)西森研究室の西森秀稔(ひでとし)先生のグループが1998年の論文で示した計算手法です。まさに西森研究室は物理で情報を扱う研究室でした」。
量子アニーリングなど自然現象のメカニズムを計算手法とするものは自然計算(Natural Computing)と呼ばれている。中でも量子アニーリングは、2011年にカナダのD-Waveが世界初の量子アニーリングマシンの商業化に用いた計算手法ということもあり、注目度は高い。

AIと量子アニーリングの融合

量子アニーリングという計算手法を使うには、問題を「イジングモデル」あるいは「Quadratic Unconstrained Binary Optimization(QUBO)」と呼ばれる形式の関数にしなければならない。しかし、これらの関数にするのが簡単な問題もあれば、難しい問題もある。そもそも関数として表現できない問題もある。
「社会課題に関連する組合せ最適化問題に取り組むときには、まず、問題ごとにすでに決まった型のようなものがあるので、類似の型がないか過去の研究事例を参考にしたり、それをさらに発展させたりして、最適化する関数を構築します。また、まったく新しいタイプの組合せ最適化問題に出合ったとき、どのように関数を構築するかを考える能力が、私たちプロの研究者の大きな強みだと思っています」。田中さんは、その豊かな経験と鋭い勘どころで、広告配信、旅行計画、交通、集積回路設計などの最適化のアプリケーションを、様々な企業と組んで実現してきた。そして、今、田中さんが力を入れているのがAI(機械学習)と量子アニーリングの融合だ。これに目を向けたのは博士課程の時だという。
「情報工学の研究を進めていた友人と『機械学習と量子アニーリングを組合せたら面白いことができるのでは……』と話したのが始まりです。2009年には、これに関して、人工知能系の国際学会で発表しました。学位を取得してからしばらくは、ほとんど量子アニーリングの研究をしていなかったのですが、この論文に興味を持った企業の方からの連絡が、量子アニーリング研究復活の端緒になりました」。
そして、東京大学や物質・材料研究機構の先生方などと研究に関する議論を重ね、“問題をイジングモデルやQUBO形式の関数にする” ところを機械学習で行う「FMQA(Factorization Machine with Quantum Annealing)」の発想に行き着き、その計算方法を構築することに成功した。現在、FMQAを使った各種アプリケーション開発や、FMQAのさらなる発展を目指した研究開発を精力的に行っている(図2)。

図2 量子アニーリングとAI とを組み合わせた新たな計算手法であるFMQA いくつかの実験結果をもとに機械学習を用いてイジングモデルあるいはQUBO形式の関数にし、量子アニーリングマシンで計算する。すると、その時点の良い解が出てくる。この解は次に実験すべき実験条件を示している。この過程を何度か繰り返して、望む性能を実現する実験条件を得ることが期待される。

「例えば、複数の物質を混ぜることで、電気がよく流れる新規物質を開発したい時、実験科学者なら、まずは複数の物質を様々な割合で混ぜて電流を測定し、この配合比ではこれだけ電気が流れるというデータをいくつか出すでしょう。FMQAでは、このいくつかのデータをもとに機械学習でイジングモデルやQUBO形式の関数を作ります。そして量子アニーリングマシンでこの関数の最適解を探索する。この時に出てくる解は、次に実験で試すべき配合比を表しています」。
いわば、実験結果を見て次の実験に繋げる実験科学者の“勘どころ” を量子アニーリングが代替しているわけだ。これに従って行った実験結果をもとに再びFMQAを実行する。この過程を繰り返すと関数の精度がしだいに高くなっていき、最終的に望む性能をもつ材料の配合比を探索することが可能になると期待される。「この方法を使った様々な材料探索やその他のアプリケーション開発に、企業や大学と一緒に取り組んでいます」(図3)。

図3 量子アニーリングによるフォトニック結晶レーザーの構造最適化の結果 従来設計の場合(左図)と量子アニーリングを利用した場合(右図)とでは、周波数分布と注入電流分布がまったく異なっており、非自明な空間分布をもつデバイス構造が得られていることが分かる。

FMQAの論文は2020年に発表されたが、材料分野はもちろんのこと、いろいろな分野の人が興味をもっているようだ。「『まだ発表できませんが、FMQAを使った研究を手がけています』と声をかけてくださる企業の方が結構いらっしゃいます」。FMQAは、実験やシミュレーションといった試行錯誤を繰り返し、これを繋げながら実態を解明していくもの、いわばブラックボックスに対する最適化のツールだという。「FMQAを通じて、様々なブラックボックスの最適化の事例が出てくることを、私自身非常に楽しみにしています」。 

(取材・構成 由利伸子)

インタビュー

田中宗准教授に聞く

周りが大人に見えた大学時代

田中さんは、江戸っ子だそうですね。

東京都江戸川区の出身で、高校は都立の両国高校でした。芥川龍之介は大先輩です。細かいことを気にしない性格が、自分でも“江戸っ子なのだな”と思うところですかね。大学は東京工業大学(東工大、2024年10月より東京科学大学)に、大学院は東京大学(東大)に進学しました。経済的に十分な余裕がなかったので、国公立の教育機関を勉強の場に選びました。
大学に入った頃のことでよく覚えているのは、都心の私立高校を出た友人たちがみな物知りで早熟だったことです。自分がすごく遅れていると感じて焦りました。今にして思うと、みんな必死に背伸びをしていたのかな?と思います。ただ、焦りは若い頃に多くの人が多少なりとも抱く感情でしょう。結局は焦っても仕方がなくて、まずは何より大学生としての本分をしっかり果たすことが、その後の人生では大切なのだとわかってきました。

「量子アニーリング」研究との縁

大学、大学院では何を学ばれたのでしょうか?

一貫して物理を学びました。中学生か高校生かの頃に、超伝導体の上に磁石が浮く写真や映像を見て物理に強くひかれるようになりました。それまでに学んだ物理と言えば、「物が落ちる」といった日常的な現象に関することで、「そういうことなんだ」とは思っても、それほど強烈な印象はありませんでした。ところが「物が浮く」といった普通では考えられないことが起こることを知ったのです。「物理を学んだ先にはこういう現象も理解できるんだ!」と思うようになり、以来、物理学に進もうと考えていました。 大学4年生(2002年)で最初に所属したのは、東工大の西森秀稔先生の研究室でした。物理学の研究室で、西森先生は当時すでに量子アニーリングを研究していました。西森先生からは卒業研究として3つのテーマを提示されました。1つ目が、コンピュータを使わずに紙とペンだけで自ら物理学における関係式を導くテーマ。2つ目が、画像修復に関する研究。3つ目が量子アニーリングでした。ところが、当時の私は量子アニーリングについては興味がなかったので、結局、物理学を志す多くの人が憧れる「紙とペンだけで問題に挑む」というテーマを選んで研究しました。大学4年生ですから、既存の論文に掲載されている物理学の関係式をなぞった程度でした。それでも非常に高度な数学が求められました。 現在、学生たちが物理学の計算で音を上げているのを見ると、「解けるだけありがたいんだよ。研究とは解けるかどうかわからない問題に挑戦しなくてはならないんだから」と思わず言ってしまうのは、当時のことを思い出すからです。

研究紹介でお話しいただいた「量子アニーリング」を研究するようになったのは?

博士課程の頃のことです。東大の宮下精二先生の下で研究をしていましたが、ある時、量子アニーリングに関する論文を見つけて非常に興味深いなと思いました。そのことを宮下先生に話したら、「研究してみるといいよ」と背中を押してくださったのです。物理は物の理(ことわり)と書くように、普通は「実態のあるモノ」を扱いますが、「情報のようなコトを量子アニーリングという物理現象で取り扱う」ことができるのですから、それはもう驚きでした。

その後、量子アニーリングの研究を続けてこられたのでしょうか?

実は、そうではありません。難しい学問分野では、よく「長年取り組んできた研究の成果が花開いた」といった美談が聞かれますが、私の場合は違います。私は長い間パーマネントの職に就けず、いろいろな大学を渡り歩きました。それぞれの大学で出会った研究テーマに取り組んできたため、量子アニーリングだけに長年取り組んできたというわけでは無いのです。
東大の物性研究所に2年、近畿大学に1年、東大の理学部化学科に3年、京都大学の基礎物理学研究所に1年、早稲田大学の高等研究所に3年、早稲田大学 グリーン・コンピューティング・システム研究機構に2年間所属していました。学生時代を過ごした東工大と東大の研究室を入れると、慶應義塾大学理工学部物理情報工学科は私にとって10カ所目の学科です。特に、2010年4月からの近畿大学のポストが決まったのは、着任の約40日前の2月15日ごろでした。私は、高校生の頃からアルバイトをして書籍を買ったり入試費用に充てたりしていたので、「食べていくぐらいならどうにかなるだろう」とポジティブな考えで生きてきました。しかし、ここまで職が決まらないことで、29歳の私は心が折れそうでした。
博士号を取得してからもサイドワークとして取り組んできた量子アニーリングの研究に集中するようになったのは、京都大学にいた2014年頃からです。2009年に発表していた機械学習と量子アニーリングを組み合わせた研究に関する論文に、ある企業の方が興味を持ってくださったことがきっかけとなり、量子アニーリングの研究に本腰を入れるようになりました。

学生には「慶應義塾大学の環境」を生かしてほしい

そういう時代だったとは言え、卒業後はずいぶんご苦労されたのですね。

確かにたいへんではありましたが、また、就職氷河期時代に就職活動で苦労していた友人たちを見ていますし、それほどくじけることなくその時々の境遇を自分なりに生かしてこられたと思っていますよ。卒業後のキャリアでは、主にスーパーコンピュータなどを使って、新規物質の性質を解明するためにシミュレーションを行っていました。ところがある時、「実際に物質をつくり出す実験」を知らないとよくないのではないかと思うようになりました。そして東大の理学部化学科の大越研究室にいた頃には、化学実験の研修を受けさせてもらって、測定や合成が実際にどのように行われているかを学びました。 このように積極的に他分野のことを吸収してきたこと、そして何よりもすぐ隣に他分野の研究者がいて日常的に話ができたことで、自分の中に多様性が育まれました。異分野に飛び込んで研究をするのは、カルチャーの違いを乗り越えるのが大変だったりしましたが、そこで、洞察力やコミュニケーション力を培ったと思っています。そうした経験が、国家プロジェクトの代表やベンチャー企業QuanmaticのCTO(Chief Technical Officer、最高技術責任者)を務める際にも生きていると感じます。

いろいろな経験をされてきた田中さんの目から見て、慶應義塾大学はどのような場所でしょうか。

学生の境遇はそれぞれ違いますが、慶應義塾大学という場所は非常にいい環境が整っていると思います。日吉キャンパスは理系に限らず様々な分野の学生が通っています。そこで若いある時期を過ごすことで、広い視野が培われます。そして学年が上がって理系の矢上キャンパスに移ってからは、自分の専門に集中する時期になります。
私自身は、国外留学の経験がありません。そのため、慶應義塾大学に着任して、少なくない学生から国外留学に興味を持っていると聞く機会があります。ここまで研究をしてきて感じることは、国外留学をすることも良いことですが、もう一度、「自分が置かれた境遇を生かし切れているか」を問い直してみて欲しいということです。慶應義塾大学には様々な個性をもった教員や仲間がいて、事務部門の人たちもよくサポートしてくれます。何らかの事情で、国外留学へ行くことができなかったり、何か特別なことをすることができなかったりしても、慶應義塾大学の学生はたくさんのことを学んだり経験したりできる良い環境に身を置いているのです。まずは、その中で吸収できることを存分に身につけて、将来、大いに活躍してほしいと願っています。そして私も、その一端でもお手伝いできたらと思うのです。


どうもありがとうございました。

 

 
◎ちょっと一言◎

学生さんから

●最初は、友人の付き添いで研究室を見学しました。先生から「納得がいくまで何度でも見学に来てみたら?」と言われて通ううちに、先生や先輩方との距離感がよくて「ここしかない!」と思うようになりました。大学院に進学し、この世界でもっと自分を成長させたいと思っています(学部4年生)。

●量子アニーリングと物理の関係を調べることで、量子コンピュータの性能向上を研究しています。田中研の1期生です。勉強はあまり得意でない学生でしたが、勉強と研究の違いについて教えてくださり、親身にご指導いただきました。就職も考えましたが、博士課程に進み、日々、研究しています。先生のような素晴らしい研究者になりたいと思っています(博士1年生)。

●社会人だった2020年に「研究をしたい」と先生に話す機会があり、「慶應義塾大学に研究室を構えたので来ないか」と誘っていただきました。民間企業で働きながら、2023年に田中研で博士号を取得しました。初めての物理分野の研究ですが、先生は、私が無理だと考える理由をすべて解消して、新しい道に進ませてくださいました。学生思いの方で、どんなに忙しくても週に1回は研究室の学生全員と個別に話をされています。研究はもちろんですが、私のようにキャリアについても親身に相談に乗ってくださいます(特任助教)。

(取材・構成 池田亜希子)

ナビゲーションの始まり