「はやぶさ」のカプセル回収の感動を若い人たちと共有したい

JAXAの研究員のキャリアをもつ石上さん。現在も、火星やその衛星の探査計画プロジェクトに参加しているが、JAXAの研究員になった直後に経験した、小惑星探査機「はやぶさ」のカプセル回収で味わった感動は忘れられないという。それは研究者たちの情熱が成し遂げた快挙だった。「研究者としての喜びと感動を、次世代の人たちにも味わってほしい」と石上さんは話す。

Profile

石上 玄也 / Genya Ishigami

機械工学科

慶應義塾大学理工学部機械工学科准教授。博士(工学)。専門はフィールドロボティクス、宇宙探査工学、テラメカニクス、自律移動システム。2003 年東北大学工学部機械航空工学科卒業。2008 年同大学大学院工学研究科航空宇宙工学専攻後期博士課程修了。マサチューセッツ工科大学博士研究員を経て2010 年独立行政法人(現国立研究開発法人)宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所研究員。2013 年より慶應義塾大学理工学部専任講師、2017 年から現職。宮城県出身。

研究紹介

「新版 窮理図解」では、毎回ひとりの若手研究者を取り上げて紹介します。

今回登場するのは、宇宙、火山、災害現場などで活動するロボットを開発している、石上玄也准教授です。

多様な領域を研究し
極限環境で活動するロボットを開発

研究成果をもとに、災害や農業、物流などに役立つロボットも

「人を助けるロボットを作りたい」という石上さん。月や火星、災害現場など、人間が行くことの難しい場所で、人間の代わりに調査や活動をするロボットをはじめ、重い荷物を運ぶなど、人間の負担を肩代わりしてくれるロボットの開発も進めている。

ロボット研究の基盤となる4つの分野

1台のロボットには、機械工学、電子工学、制御工学、情報工学などさまざまな分野の技術が注ぎ込まれている。それぞれの領域に特化する研究者が多いなか、石上さんはロボットの様々な側面について研究開発をしている。
「最初は、“テラメカニクス” という、まさにロボットの足元の力学をやりました」と石上さん。ロボットが月面を走行するとき、その足元は平坦ではない。砂地や岩石が散らばる月面などで車輪はどういう状態になるのか、力学的な考察が必要であった。
足元がわかると、ロボット全体の挙動が気になった。障害物を乗り越えるときにロボット車体がどのように揺れるのか、あるいはひっくり返るのか、そうしたことを解析してコンピュータの中で再現する、“マルチボディダイナミクス” という分野にも取り組んだ。これは、惑星や衛星の表面に探査機が着陸するときのシミュレーションにも使われている。
体の次は知能に関心が向く。「どう動けばいいかをロボット自身が選択できるように」と考え、“自律移動システム” の分野に進む。車輪をコントロールするためにはどうしたらいいか、どの走行ルートを走れば最も安全かなど、自動運転につながるような研究だ。情報学を基盤とする分野だが、それまで扱ってきた力学の知識が役に立ち、効率のよい解析や結果の正確な解釈ができた。
様々な分野を手掛けてきた経験は、知能をもった車輪「センサーホイール」の開発に結実する。それは足の裏のような感覚を持つ車輪で、車輪自身が、地面の固さや自分の沈み具合、滑り具合を認識することができる。また、走行データを蓄積し機械学習を介することで、走るたびに賢くなっていく可能性がある。これはテラメカニクスの分野では画期的な研究成果として評価されている。
もう1つ欠かせない課題は“エネルギーマネジメント” だ。月面など極限環境では、ロボットの電力消費を抑えて、効率よく動くことが至上命題となる。太陽電池パネルを搭載したロボットの最適な発電制御手法を機械学習で導き出したり、発電量やエネルギー消費量を考えたルートやロボットの動作を生成したりする。エネルギーロスの少ない走行を実現するためには、テラメカニクスの知見が必要で、ここでも石上さんが横断的に研究を進めてきた強みが発揮されている。

火星や月、火山などで活躍するロボット

石上さんはこれらの4つの基盤研究を様々な応用分野に生かしている。現在携わっている宇宙関係のプロジェクトは3つあるそうだ。1つは宇宙航空研究開発機構(JAXA)が主導する火星探査計画で、この計画では火星表面や表層下(地下)でサンプルを採取して生命の痕跡をはじめ様々な科学探査を立案している。石上さんは、科学探査装置を搭載する移動ロボットの仕様やシステム設計に携わっている。
2つ目は、同じくJAXAの火星衛星 探 査 計 画MMX( Martian MoonseXploration)。これは2020年代前半の探査機打ち上げを目指している。フォボスとダイモスと呼ばれる火星の2つの衛星でサンプル採取を行い、小惑星探査機はやぶさのように地球にサンプルを持って帰るプロジェクトだ。石上さんのチームでは、衛星に着陸する際の探査機の挙動のシミュレーションを行っているとのこと。
そして、3つ目は月面に発見された縦孔と呼ばれる地下空洞の探査。月面のすぐ下には富士山麓にある風穴のような大きな洞窟がある。将来、人が月に行ったとき、宇宙の放射線を防いでくれる場所として期待できる。この縦孔へ投入する小型ロボットも検討しているとのことだ。
一方、石上さんはこれまでに伊豆大島の三原山や阿蘇山で、移動ロボットを使った火山観測実験も行ってきた。現在は、火山の調査方法として注目されているミュオグラフィ(宇宙空間から降り注ぐ素粒子ミューオンを観測する手法)の観測装置をロボットに搭載して、火山の空洞調査を行うことを検討しているとのことで、これにより火山の水蒸気爆発の規模を推定することが可能になるかもしれない。

災害現場や運搬作業の負荷軽減に貢献するロボット

ロボットの遠隔操作技術は災害現場などでも威力を発揮する。内閣府が推進する革新的研究開発推進プログラム(ImPACT)の1つ、「タフ・ロボティクス・チャレンジ」は、人間が近づくことが困難な災害現場で活躍する、タフなロボットの実現を目指すプロジェクト。石上さんは建設車両を使い、災害地での大量の土砂や岩石などの除去作業、震災で倒壊した家屋の屋根を持ち上げて、中の人を救出する作業などのシミュレーション検討を担当している。
このほか自律移動システムを使って農薬の散布や農産物の収穫を補助するロボットも手掛けている。例えば、搭載したカメラで作業者を認識するロボットが、その作業者の後ろについて一定の距離を保って追従し、収穫した農作物を運んでくれるといったものがある。「足場が柔らかく不安定な農場をスムーズに走行させる技術はまかせてほしい」と石上さん。ここでも研究してきた基盤技術が生かせるそうだ。
「同じ仕組みは物流倉庫にも使える」という。1人の作業員が1日に何トンもの荷物を運んでいる倉庫で、荷物のピックアップや運搬をロボットが手伝えば、負荷軽減、人手不足の解消にもつながる。このようなロボット導入は、ときとして「人の仕事がロボットに奪われる」と警戒されるそうだ。そのようなとき石上さんは、「人から仕事を完全に奪うので
はなく、人が出来ること、ロボットが出来ること、それぞれを協調して仕事を効率化する、それを実現していくことがロボットのあるべき姿になる」と伝えているそうだ。

電動車いすの技術を競う国際大会に出場

電動車いすの開発は、さらに積極的に人を助ける研究である。ある日、理工学部長の伊藤公平教授と偶然同じ電車に乗り合わせたときのこと。「石上さん、サイバスロンに出てみない?」と教授から持ち掛けられたのがきっかけだ。サイバスロンは、障がい者に対してロボット技術を役立てることを目的とした国際コンペティション大会で、電動車いすレースがある。
このレースの課題は、「狭いところを走る(スラローム走行)」「坂を登る」「車いすに乗ったままロボットアームが自動でドアを開ける」「車道から段差のある歩道に上がる」など、車いすを使う人が直面している現実的な問題を障害物とするものだった。石上さんはその場で参加を決断、2019年5月に開催される電動車いすシリーズ日本大会に出場することになった。

この6 つの応用研究それぞれどれもが、4 つの基盤研究に支えられている。

“研究のための研究”に終わらせてはならない

「ロボットの研究者が気を付けなければならないのは、研究のための研究だけであってはならないということです」と石上さん。基盤研究を大事にしつつも、自分の研究が実際の現場でどう使われるかまで見据える必要があるといい、研究室の学生にも、研究の背景を常に意識するように指導している。
それを強く意識したきっかけは、東日本大震災だった。福島第一原子力発電所の事故が起きたとき、日本製の探査ロボットはすぐ実働できる状況にあったにもかかわらず、最初に探査に入ったのはアメリカ製の軍用ロボットだった。技術的にはアメリカ製よりも日本製が優れていたのに、すぐに貢献できるはずのタイミングを失い、多くのロボット関係者が歯がゆい思いで見守っていたそうだ。
石上さんが作りたいのは、実際の現場で人の役に立つ、人を助けるロボットだ。

(取材・構成 平塚裕子)

インタビュー

石上玄也准教授に聞く

映画づくりをめざして米国留学を考えたが断念する

どんな子ども時代を過ごされたのですか。

小学生の頃は外でよく遊んでいました。近所の山に獣道があり、友達のお兄ちゃんが鎌で切り開いてルートを作ってくれて、基地ごっこをして遊んだりしました。一方、家の中では、二槽式洗濯機の渦や、お風呂の水を抜くときにできる波形などをじっと見ていましたね。ボールペンを分解したり、レゴで遊んだりもしていました。父と物置を作ったとき、砂を叩いて地盤を固くしたり、土台を水平にするために水準器を使ったりしたのは楽しい思い出です。
中学、高校時代はバスケットボールと勉強をがんばっていました。ところが高校3年生の春、大学生との練習試合で足の靭帯を切ってしまいました。4月29日のことです。6月の最後の大会に向けて出場を目指してがんばっていたときだったのでショックでしたね。怪我をした日のことは今でもよく覚えています。

大学で宇宙ロボットの研究室に入られるのですね。

高校時代は特に映画が好きだったので、実はコンピュータグラフィックス(CG)制作関係の道に進みたいなと思っていました。高校3年生の6月に部活を引退した翌日、映画『タイタニック』を見に行き、やはり映画関係に進みたいと思ったのです。当時、1990年代の後半はCGの発展期で、やはりアメリカが進んでいましたから、ジョージ・ルーカスの会社(ILM)やピクサーなどを目指して、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に留学しようと考えたのです。留学のアドバイスをしてくれる会社に相談し、奨学金のことも考えてかなり綿密に計画を立ててから両親に話をしました。が、やはり、費用の面での難しさが多く、断念しました。 そこで大学受験を考えたときに、地元の東北大学に宇宙ロボットの研究室があることを知り、そこを目指すことにしました。指定校推薦をいただくことができ、東北大学に合格し、そして学部3年生のとき、志望した吉田和哉先生の研究室に入ることができました。 驚いたことに研究室には“3ds Max”というCGソフトがありました。映画会社が実際に使っている高級なソフトなので嬉しかったですね。いろいろ遊ばせてもらいながら、研究室の皆さんの研究にも役に立ったと思っています。「衛星設計コンテスト」に参加したときには、プレゼン用のCG映像を作りました。流星観測をする小型衛星のミッションを提案したのですが、H-IIロケットの打ち上げシーンから始まり、衛星が分離されて、そこに流星がばーっと降ってくるもので、たいへん好評でした。

恩師のアドバイスで博士課程に進み研究者に

研究者の道に進もうと決意されたのはいつですか。

工学部では、学部卒で就職するよりも、修士を取得してから就職する学生がほとんどです。修士1年の終わりごろから就職活動を始めるのですが、修士2年の4月に吉田先生から、「博士に進学しないか」というお話をいただき、これがターニングポイントになりました。吉田先生が私のことを評価してくださったという安心感がありましたね。また、修士1年の間に自分自身がすごく成長したと感じる出来事がたくさんありました。例えば、アメリカの砂漠で行われる超小型人工衛星(CanSat=カン・サット)のコンペティションや衛星設計コンテストに参加して、自分なりに手応えは感じていました。
また、春休みにオーストラリアのニューサウスウェールズ大学に短期留学をしたとき、自分の研究が思った以上に現地の先生や学生に評価されたこともありました。
博士課程でさらに研鑽を積んだらどんな人間になるのかという自分自身への興味もあり、進学を決めました。

博士号を取得した後、マサチューセッツ工科大学(MIT)に移られましたね。

博士取得後は海外で研究をしたいと思い、博士課程在籍中からNASAやアメリカの大学研究機関など、いろいろアプローチしたのですが、なかなか良い返事がもらえませんでした。そんな中で、MITのKarl Iagnemmaさんにもメールを出しました。Karlさんが書かれた論文がどれも素晴らしく、かねてからぜひこの人と一緒に仕事をしたいと思っていたのです。
Karlさんも私のことをご存知だったらしく、私の申し出に対して「現時点では給料の半分ならMITから出せると思うよ」という返事をもらいました。そこで残り半分の給与相当として奨学金をいろいろ探し、村田海外留学奨学会の奨学金を得ることができました。その最終面接官のおひとりに慶應義塾大学の吉田和夫先生がいらっしゃりとても緊張したのを覚えています。

「ロボットが兵士の命を救ったこと」に衝撃を受ける

MITでの研究生活はいかがでしたか。

今までの人生の中で一番やせていた時期ですね(笑)。最初の3カ月は苦しかったです。思ったより家賃や税金が高くて、お昼はベーグル1個、というようなサバイバル生活をしていました。さらに、英語はできるとたかをくくっていたのですが、甘かったです……。周りにいる学生は優秀ですし。1年目に一緒に研究をしていた大学院生は、数学がすごくよくできる方でした。論文の中の式展開がわからないというと、「え、なんでこんなのがわからないの?ガンマ関数を使ったらすぐ解けるよ?」と言われたので「ガンマ関数なんて知らないよー」というような具合でした。 ただ、研究室全体がどちらかというと理論派でしたので、Karlさんは実装や実験寄りの研究者として私を評価してくれました。2年目になると、少し給料も上がり、英語にもなれて、海外生活をかなりエンジョイできるようになりました。企業へのコンサルティングも含めて、4つくらいのプロジェクトを掛け持ちしました。 忘れられないのは、アメリカ国防高等研究計画局(DARPA)関連のプロジェクトです。あるとき、アフガンで遠隔操縦ロボットが爆弾を処理している際、その爆弾が爆発してしまう事故がありました。その後に開かれたDARPAの学会に私も参加することが出来たのですが、そこで軍の高官が「ロボットのおかげで兵士3人の命が助かった」とスピーチしたところ、スタンディングオベーションが起きたのです。研究の成果が人の命に置き換えられた現場に初めて遭遇し、人の命を助けるためのロボットはヒーロー扱いされるのだと衝撃を受けました。

MITを去られたのはどうしてですか。

Karlさんに帰国について相談したとき、「日本よりもアメリカのほうが待遇がいいぞ」と残るように言ってくれました。「ゲンヤが辞めてしまったら、代わりに3人くらい人を雇わなければならない」と言ってくれたのは、たいへんうれしかったですね。
アメリカに滞在中、司馬遼太郎さんの小説『坂の上の雲』を読んで、自分と同年代ぐらいの登場人物が日本のためにがんばっている姿に感銘を受けたのも一因です。アメリカの研究費のボリューム感や開発速度は、日本とまったく違います。当時、日本の宇宙開発はNASAから20年以上遅れていると感じていたので、やはり日本のために働きたいと思ったのです。

帰国後のJAXAでの仕事はいかがでしたか。

JAXAでは積極的に働きました。火星着陸探査計画では、当時の上司だった久保田教授からこの計画の話を聞いて、参加2回目のミーティングで「私はこういう貢献ができます」とプレゼンさせてもらいました。その結果、チームの一員として認めてもらい、数年後のミッション審査会では発表の機会もいただきました。
着任直後の2010年6月には、小惑星探査機「はやぶさ」のカプセル回収隊にも加えていただきました。無事カプセル回収を終えた翌朝、「はやぶさ」のイオンエンジンの開発者で、回収隊隊長だった國中先生の熱いスピーチに感銘を受けました。様々な研究者の世代を経て30年近くかかってきたミッションが完遂していく感動を共有させていただきながら、このような経験を次世代の若い方々にも経験してほしいと強く思いました。
それが慶應義塾大学への志望につながりました。実はJAXA在籍時から今でもたいへんお世話になっている研究者の方も、前述の村田海外留学奨学会の奨学金で最終面接をしてくださった吉田和夫先生のお弟子さんだったこともあり、慶應義塾大学とのご縁を感じています。

研究では自発的、能動的に動いてチャンスをつかむ

どのようなところに慶應義塾大学の良さを感じますか。

教職員が一丸となって同じ方向を向いて仕事ができることは、素晴らしいと思います。他の大学ではなかなかないことだと思います。前例がない案件であっても「できません」ではなく、「こうしてみたらどうですか?」とか「これでやってみましょう!」と一緒に解決策を探してくれます。 それから、学生と教員との距離が近いことも慶應の魅力だと感じます。確実に研究にプラスに働いています。着任後しばらくして、福澤諭吉先生の「半学半教」という言葉を知り、言い得て妙だなと思いました。私も教える立場にありながら、学生からも教えられる、学ぶ立場でもあることを実感しています。

研究で大事なことはなんでしょうか。

私の出身高校の標語・モットーは「自発能動」でした。学生さんには「受け身にならないで」とよく言っています。「自分はこんなことができるんだ」という声を出さないと、周りから見てもらえません。誰かの指示を待っているようでは、いい研究はできないでしょう。私がJAXAで火星探査ミッションのプレゼンをしたように、自らアピールして仕事を取る姿勢も必要です。自発性をもって能動的に動いてほしいですね。
もう一つは取り組んでいる研究が、「社会にとってどういう意味やインパクトを持っているか」を考えながら取り組むという視点も必要ですね。

 

どうもありがとうございました。

 

 
◎ちょっと一言◎


学生さんから
●すごくユーモアのある先生です。博識で、得意な分野がたくさんあるので、どんな研究をしていても、的確なアドバイスをくださいます。一緒にソフトボールをしてくださる一面もあって、なんでも話せる先生です(学部4年生)。

●先生から怒られたことはないし、怒ったのを見たこともありません。唯一怒ったという話が、伊豆大島でのフィールド実験で起こった「ハッピーターン事件」として研究室に伝えられています。詳細は部外秘ですが(笑)(修士1年生)。

●伊豆大島ではフィールド実験も一生懸命しましたし、徹夜の卓球大会も一緒にやりました。自分なりの考えをもって相談に行くと「いいね!」と言ってくださるときもありますし、先生の豊富な知識に助けられることも多々あります(修士1年生)。

(取材・構成 池田亜希子)

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