小学校、中学校、高校と、一番成績の悪い科目は習字と算数・数学。習字については左利きだから、という言い訳ができるものの、数学については…えぇっと…という自他ともに認める文系人間でした。現在の私は、大学で数学を教え、数学者のはしくれとして数学の研究をしていることになっています。世間の人から見たら、典型的な理系人間ということになるのでしょう。もちろん、理工学部に進学したくらいですから、高校生のときから、成績は伴わないながらも、理科系の学問に対する興味はあったのです。しかし、その興味もある意味では文系人間の視点からのものだったと言えるかも知れません。

例えば、水面を伝わる波。波の様子を言葉によって表現した詩もあれば、音楽によって表現した名曲もあります。その一方で、波という自然現象は、自然科学の研究対象でもあります。つまり、波の自然科学的な表現というものが存在するのです。自然科学による表現は、いったん出発点(仮定あるいは仮説)を決めると、(例えば、それに基づいた数学的な定式化がなされ)あとは論理に則って完成されます。現象のこのような表現は、詩や音楽による表現と比べると一見愛想は悪いのですが、よく見ると透明な美しさをもっています。そして、我々を現象の理解へと導き、ときとして詩や音楽にはできないこと、例えば現象を制御することをすら可能にするのです。

このような話を聞きかじっていた高校生の頃の私は、文系人間だったにも関わらず、自然科学的な表現の土台となり、自然科学のある種の普遍性の根源ともなっている数学に興味をもつようになりました。そこに現れる数学は、私が試験の度に苦労させられていた数学とはずいぶんと違うものに思えたのです。私が通っていた慶應義塾高校からは、いわゆる内部進学で慶應義塾大学に進学することができました。おかげで、自分の数学の成績には気付かなかったふりをしてこっそりと理工学部II系への進学を希望することができ、ちゃんと入学が許可されたのです。

一応はもっともらしい動機をもって理工学部に進学したわけではありますが、案の定、それは入学直後の興奮のため頭の隅に追いやられ、しばらくの間忘れ去られることになります。動機は動機、現実は現実です。実際、学部3年のときまで、私の生活の中心にあったのは理工学部体育会スキー部の活動の方でした。現在は活動休止中のようですが、当時はスキー人気が絶頂にあり、競技スキー(タイムを競うアルペン競技)を行う我が理工学部体育会スキー部も多くの部員を抱えていました。3年生のときにはスキー部の主将を務める羽目にもなりました。シーズンになるとスキー場での合宿が続く生活で、実にいろいろなことがありました。喧嘩もあれば、事故もあり…。今となってみれば、楽しい仲間達との充実した日々だったと言えるのですが。一方で、シーズンオフの私はと言うと、矢上キャンパスには来ているものの、部室と図書館を行ったり来たりするだけで、勉強の方はさっぱり。ここだけの話ですが実によく講義をさぼりました。試験前になると、手元には当然のことながら講義のノートもないので、今で言うところのシラバスを眺めて講義内容を確認し、図書館で参考になりそうな本を漁り、無手勝流で試験に臨むということを繰り返していました。もちろんしばしば単位を落すわけで、結局、卒業単位ぴったりで卒業することになります。

理工学部体育会スキー部の 1985 年度夏合宿

小さな声で言い訳しておくと、このような経験は、全く無駄なものだったわけでもないのです。研究の場では、目の前の問題に取り組む方法が初めから分かっているわけではありません。手探りで思考を進めていくのが普通です。それにすんなり馴染めたのは、無手勝流の勉強法のおかげだと思っています。とは言うものの、このような勉強法を勧めている訳ではありませんから、誤解のないように。講義内容を理解するには、やはり、講義に出席し、整理された説明を聞くのが一番の近道です(と、立場上言わなければならないわけで…)。

よく大学時代の友人は一生の友人だと言われます。私も同感ですが、慶應義塾の理工学部という特別な場で特別な経験を共有したことは、この時期の友人、スキー部での先輩、後輩、同級生を私にとってより一層特別な存在にしてくれているように思います。早慶戦、三田祭を初めとする塾を挙げての数々のイベント、そしてスキー部の私達にとっては一大イベントであった塾内のスキーチームが競い合う全塾大会。いずれも慶應義塾の先生方、先輩方の御助力、その源となる塾への愛情なしには存続し得ない素晴らしいイベントでした。当時はその有難さに気づいていませんでしたし、慶應義塾というブランドそのものに反発してみたりもしました。しかし、振り返ってみると、友人達と共にこのようなイベントに参加できたことは、何ものにも代え難い思い出となっています。私は、現在までに、都立大学(現在の首都大学東京)、名古屋大学、東北大学の教員を務めてきましたが、このような経験ができる大学は日本には慶應義塾以外にはないのではないかと思っています。

1992年2月の理工学部体育会スキー部 OB 戦、朝の集合写真

さて、私が理工学部を志望したもっともらしい動機を思い出すのは、学部3年の終り頃のことです。広い意味での図形を扱う数学である幾何学に興味をもった私は小畠・前田研を志望しました。現在もそうですが、当時も数理科学科の幾何学の研究グループには、第一線で活躍するそうそうたるメンバーがスタッフとして名を連ねていました。当時の小畠・前田研の陣容は、小畠守生教授、前田吉昭助教授、小林治助手、そして金井雅彦助手という豪華なものでした。研究室に配属が決まったときには、この先生方がどれだけ優れた幾何学者であるか全く分かっておらず、不届きにも「よくお酒を飲む先生達だ」などと(自分のことを棚に上げて)感心していたものです。この先生方のセミナーでの(あるいはお酒の席での)御指導のおかげで学習・研究に対する意識が高まり、微分幾何学という分野の研究を志すようになったのです。そして、幸運にも数学者として研究を続けられる職を得て現在に至っています。小畠先生には、大学院に進学してから、さらには大学に職を得てからも、研究上のことに限らず、様々な決断の折に適切なアドバイスを頂くなど、本当にお世話になりました。また、前田先生、小林先生、金井先生、そして私の大学院進学後に数理科学科に来られた藤原耕二先生には今でも研究上で(えっと、それから、お酒の上で…飲んでばかりですが…)とてもお世話になっています。

この原稿を書きながら学生時代を振り返ってみて、大したものではないにしろ、現在の私があるのは、あの頃理工学部の矢上キャンパスで出会った先生方、友人達のおかげだということをあらためて痛感することになりました。その方々のお名前とエピソードのごく一部にしか触れることができなかったのが残念です。また、一番お世話になった小畠先生は、まだまだ何のお礼もできていなかったのに、昨年末に 80 歳で亡くなられました。心より御冥福をお祈り致します。最後に、お世話になった全ての方々と、このような機会を与えて下さった澤田達男先生、森吉仁志先生に感謝致します。

プロフィール

井関裕靖(いぜき ひろやす)
(慶應義塾高等学校 出身)

1985年4月
慶應義塾大学理工学部 入学(II系)

1989年3月
慶應義塾大学理工学部数理科学科 卒業

1991年3月
慶應義塾大学大学院理工学研究科数理科学専攻修士課程 終了

1992年3月
慶應義塾大学大学院理工学研究科数理科学専攻博士課程 退学

1992年4月
東京都立大学理学部 助手

1995年4月
名古屋大学大学院多元数理科学研究科 助教授

1997年4月
東北大学大学院理学研究科 助教授 

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