新板 窮理図解
これまで、珠算、卓球、競技ダンスなど、いずれも少しマイナーだが、
奥深い世界が広がる趣味やスポーツを、根気よく続けてきたという湯川さん。
その姿勢は、流行の研究に飛びつくことなく、
理論研究を究める研究者としての湯川さんの姿勢と重なる。
その陰には、家族の支えや、友人、恩師とのかけがえのない出会いがあった。

どんな幼少期を過ごされたのですか?
 どうやらおしゃべりな子どもだったみたいで、保育園の先生に家で起きた出来事を、逐一、話していたようです。しかも、はきはきと、わかりやすく話していたようで……自分ではあまり覚えていないのですが、両親は「かなり恥ずかしい思いをした」と言っていました(笑)。
 それから、いつも4つ上の姉の後をついて歩いては、一緒におままごとなどをしていて、「金魚のフン」と言われていましたね……(笑)。
 出身は神奈川県南足柄市です。父も母も公務員で、父は小田原市役所、母は大蔵省印刷局に勤めていました。理数系の科目が得意だった両親の遺伝子を受け継いだのか、幼稚園の頃から暗算が得意だったと聞いています。ただその頃の記憶はあまりなくて、覚えているのは小学生の頃に、母の買い物について行って、金額を暗算していたことくらいでしょうか。
 数学的な興味という意味では、なぞなぞとかクイズ、パズル、算数に関する本は好きでよく読んでいました。それ以外は、『ドラゴンボール』や『聖闘士星矢』など、流行の漫画を読むくらいで、読書はあまりしない子どもだったと思います(笑)。
 小学校に入学すると珠算を習うようになり、先生の指導がよかったこともあって、中学2年まで続けました。珠算は初段、暗算は三段を持っています。競技会ではいつも上位に入賞していて、小学6年生の時には、読み上げ算で、神奈川県大会で優勝したこともあるんですよ。昔ほどではありませんが、今でも二桁くらいの足し算やかけ算は暗算で計算します。
 算数や数学を友達に教えていたこともあります。今から思えば、友達に教えることで、自分の勉強にもなっていたのでしょうね。友達には感謝しています。

インドア派だったのですか?
 いえ、家の周囲に田んぼが広がっていて、よく、田んぼや花畑など外で遊んでいました。小学校では休み時間の度に、校庭にダッシュしていって、クラスの皆とボール遊びをするような、活発な子どもでした。学校に行くのが好きで、朝、6時に登校しては、友達と一緒に持久走の練習をしていたこともあります。そのほかにも、クラブで野球をしたり、スイミングスクールで水泳をしたり、身体を動かすのは好きでしたね。中学では卓球部のキャプテンを務め、県大会にも出場しました。身体を動かす分、睡眠もよく取っていました(笑)。
 一方で、ファミコンやゲームボーイに夢中になった時期もありました。飽きるまでやって、中学に入る頃には、本当にすっかり飽きてしまい、ゲーム遊びは卒業しました(笑)。

ご両親から「勉強をするように」と言われることはなかったのですか?
 なかったですね。宿題など、最低限の勉強はしていたし、授業もしっかり聞いていたと思うので、勉強のことで叱られたりしたことはありませんでした。基本的にやりたいことを好きなだけやらせてもらえる環境で育ててもらったことに感謝しています。小学生の頃に、プラモデルをつくっていて、家の絨毯(じゅうたん)をボンドでベタベタに汚してしまったことがあるのですが、それでも怒られた記憶はありません。それくらい、寛容な親だったのでしょうね。
 中学生になると姉の影響もあり、地元の小さな塾に行くようになりました。塾の先生の熱心な指導のおかげもあって、ますます数学の勉強が楽しくなりました。ただ、将来は研究者というよりも、公認会計士になろうかなと考えていました。
 高校は学区外の県立厚木高校に進学し、小田急線に片道40分乗りながら数学の教科書を読むのが日課でした。これが、現在の研究者としての血肉になっているのかもしれません。
photo 一方で、社会勉強と小遣い稼ぎを兼ねて、1年生の途中から2年生の終わりくらいまで、クラスの友達と一緒に、高校の近くの生協でアルバイトをしていました。お惣菜コーナーでバイトしていたこともあって、ピタっときれいにラップをかけるのが特技なんですよ。この特技で、妻にびっくりされたこともあります(笑)。
 バイトで稼いだお金は、アコースティックギターを買うなど、音楽に使っていました。「スピッツ」とかJ-Popの弾き語りをしていましたが、人前で演奏するほどではありませんでした……(笑)。
 高校3年生から受験を意識し始め、理系の大学を目指して、進学塾に通うようになりました。秋の文化祭ではクラスの仲間とダンスや出し物に熱中しましたが、その後のラストスパートでなんとか大学に合格したという感じです。