新板 窮理図解

最初から、研究者の道に進もうと思われていたのですか?
 まったくそうではありませんでした。4年で卒業後、就職するものだとばかり思っていたのですが、いざ、3年の終わりになるとどうしてもそういう気持ちになれず、かといって、言語学の研究者になって、自分に何ができるだろうと悩みました。そこで指導教授に相談したところ、「僕だって最初は自分が立派な研究者になれると思って進学したわけではないよ。興味があれば、続けてみたら」と言われて、心の整理がつきました。結局、母の反対を押し切ってというか、諦めてもらって、卒業した年の9月に米国のニューヨーク州立大学バッファロー校に留学しました。
 アメリカの大学に進学したのは、日本に言語学を系統的に学べる大学がほとんどなかったことに加え、慶應で言語学の授業を取った時に、先生方の多くがアメリカの大学院のご出身だったという理由です。また、バッファローの大学には私が教えを乞いたい研究者がいらっしゃいました。
 ところが、最初は言語学の中の「意味論」について学んでいたものの、しだいに現在の研究テーマである「音声学」へ興味が移ってゆきました。話者の意識が介在し、場合によっては主観と客観の区別が難しい意味論とは異なり、物理的な観察対象がある音声学の明確さに惹かれました。
 例えば、世界じゅうの言語を見てみると、子音の場合は、有声子音よりも無声子音が優勢であることがわかります。有声子音というのは「z」や「v」のように声帯を震わせて発音する子音で、無声子音というのは「s」や「f」のように声帯の震えを伴わずに発音する子音です。ちなみに、有声と無声の違いは、喉に手を当ててこれらの音を発音すると、有声子音の場合は喉が震えるのに対し、無声子音の場合は喉が震えないことで分かります。有声子音は、喉で空気の流れが阻害されるので、子音らしい摩擦を生じさせるのが難しい。そうした物理的な要因が、言語の成り立ちに大きく関わっていることを知り、学生時代には無味乾燥に思えていた音声学の魅力に気づきました。
 留学を通じて、さまざまな出会いもありました。国費で留学しているアフリカ・トーゴ出身の学生の質素な生活ぶりを見て、日本の恵まれた環境を実感したり、サウジアラビアの学生から母国の言語統制について聞かされ、国や文化の多様性を肌身で感じたりもしました。
 もう1つ興味深かったのが、バッファロー訛です。言葉は聞き取れるのですが、これまで習った英語の発音とは違う……。どういうわけか、それが、聞き覚えのある名古屋弁に似ていると直感しました(笑)。母音が標準米語の音からずれていて、特にæの音が、地元の人の発音は「エ」に近いのが原因ですが、合理的には説明できません(苦笑)。最初に聞いたときは、懐かしいというよりも、ちょっと恥ずかしいような気持ちになりましたね(笑)。
 結局、途中で音声学に研究の軸足を移したこともあり、バッファローでの研究生活は9年に及びました。指導教授の1人が数学出身の方だったこともあり、自分の興味が数理や工学に関わる分野にシフトし、学ばなくてはいけないことが多く、長く時間がかかりました。日本に戻ってきたのは、2008年のことです。